明治天皇と西郷隆盛

若き日の明治天皇は儒教的な聖人君主を目指す教育を受けました。その人格陶冶の過程では武士出身の侍従たち、吉井友実、村田新八、山岡鉄舟といった人々が天皇を導く道しるべとなりました。武士として完成された彼らは儒教的な人徳を体現した「生きた手本」です。身分の上下を超えて、明治天皇はそんな侍従たちを人間として尊敬していたと思われます。ところが上には上がいるもの。これら大人の侍従達が多大な信頼を寄せる大人物がいました。それが西郷隆盛です。

明治維新の功臣と言えば、まず名前が挙がるのは西郷隆盛です。海音寺潮五郎さんが言うには、西郷が持つ絶大な人望は、彼が英雄であることの証であり「天授」であるとして、『史談 切り捨て御免』のなかで次のように述べています。

西郷隆盛が、軍人としては大村益次郎におよばず、政治家としては大久保利通におとり、政治運動家としては坂本竜馬におとり、政論家としては木戸孝允におよばず、世界の情勢を知り、将来を洞察する見識において勝海舟におよばなかったにかかわらず、英雄であるという点では段ちがいに大きかったというのが、---この天授である。


臣下として仕える身分ではあるものの、明治天皇からすれば、西郷隆盛はまさに論語にある、

 これを仰げばいよいよ高く、これを鑽ればいよいよ堅し。
 これを瞻るに前に在れば、忽焉として後に在り。

という人物に見えたのではないでしょうか。

西郷隆盛は武士道が昇華したような人徳を具えた人物だったそうです。しかし、そうかといって儒教が理想とする堯、舜のような無味乾燥した完全無欠の人格者ではなく、もっと生身の人間味溢れる人物でした。

それを伝える逸話があります。明治5年、新政府のあり方に不満で反動的な態度をとり続ける島津久光を慰撫するため、明治天皇が御幸し、海路鹿児島入りすることになりました。西郷隆盛も同伴します。
そこで次のようなことがあったと海音寺潮五郎さんの『日本の名匠』収録の「明治天皇と西郷隆盛」に書いてあります。

 
西郷は鹿児島が軍艦の寄港地として設備がととのっていないことを知っていたので、前もって鹿児島県令の大山綱良に書を寄せて、港に木で桟橋を設け、陛下のご上陸に便利なようにしつらえておくように言ってやっておいたのだが、それがしてなかった。
 西郷はむっとした顔になり、ともかくも陛下とともにハシケに乗りうつり上陸にかかったが、ハシケには季節のことで西瓜がおいてあった。西郷はそれを手許に引きよせると、拳をかためてグワンとたたきわった。そして、顔から胸にかけてしずくが飛び散ったのを拭きもせずに、手づかみでむしゃむしゃと食べた。


指示が行き届かず明治天皇に不便をかけたこと、郷里・薩摩の失態に対する西郷なりの怒りを素直に表現したわけです。こうした怒りは人間として当然の感情であり、いかに人徳者・西郷隆盛といえども出るときには出てしまうということなのですが、こうした人間味も含めて、明治天皇は西郷隆盛のことを尊敬していたのです。

ところが、西郷が明治天皇に従事していた期間は長くはありません。明治6年、いわゆる征韓論争の結果、西郷は職を辞して帰郷。その後、西南戦争が勃発し、西郷は賊臣として死ぬことになります。明治天皇の心境はいかばかりだったでしょう。

建前上は、新政府すなわち明治天皇に反逆した大罪人である西郷隆盛。しかし、明治天皇自身は、西郷が本気で自分に弓矢を向けたとは思っていなかったようです。それを伺わせる逸話が同じく『日本の名匠』に出ています。

 
西南役中から西郷は逆賊ということになって、政府はまた、西郷が国民的英雄として最も評判のよい人物であっただけに、その評判をたたきおとすことに懸命につとめ、悪口至らざるはなかったが、天皇は毎夜のように西郷のことを、ご晩酌の時、お側のものにお話になったという。それは前述した軍艦竜驤で鹿児島にお出でになった時の、西郷のことであった。
「・・・西郷がおこってのう、むっとして顔になったが、西瓜を引きよせると、こぶしをかためて、グワンとたたきわった。しずくが顔から胸に飛び散ったが、拭きもせんで、手づかみでむしゃむしゃと食べとるのよ。こわい顔して。おかしかったなあ・・・」
 これが、明治二十二年二月十一日、憲法が発布せられた日、大赦令が出て、西郷の賊名がのぞかれ、正三位を贈られると、ぴたりとやんだというのである。


この逸話に対する海音寺潮五郎さんの解釈は次の通りです。

西郷は天皇にとって最もなつかしい人物であり、それが賊名を着て、悪評にさらされていることは、天皇にとって忍びがたいおんことであったのであろう。上野の銅像はこの時ご下賜になった金を基金にして、人々から募金して建てられたのである。


海音寺潮五郎さんは明治天皇の西郷隆盛に対する感情を、ひとこと「なつかしい」と評しています。そしてそこには、西郷のことを偉大な人格者として仰ぎ見るような気分でいた若き日の明治天皇の心情が反映されているように思えます。

今や明治天皇も西郷隆盛も、歴史の中に閉じこめられた人物であり、名前だけが一人歩きしているような状況です。しかし上記の逸話に接するとき、私は血の通った人間同士の、心温まる交流を思わずにはいられません。
当たり前ですが、歴史上の人物もその当時は生きていたのです。どれほど歴史的な偉業を成し遂げた人物であっても、人間として生きていくには怒りも悲しみもあり、悩みもあります。
そうした感情を正面から捉えて歴史を解釈していく。海音寺潮五郎さんの作品はそうしたことも教えてくれるのです。


短期連載:天皇だって生きている

 ・天皇だって生きている

 ・天皇だって人間だ

 ・明治天皇と西郷隆盛

 ・明治天皇と山県有朋

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この記事へのコメント

Yute
2009年10月22日 19:56
おげんきですか?

私はこのエピソードを初めて読んだ時、目から汗がでました。

今またここで読み返して、目頭が熱くなっています。

ではまた!
モモタ
2009年10月23日 04:41
Yuteさん、すっかりご無沙汰です。
いつもありがとうございます。

「昭和史論争」ではありませんが、やはり「人間」を抜きにして歴史は語れませんよね。天皇は一般人から遠い存在で、私も以前は非常に無機質な印象を持っていたのですが、全くそうではないということが、いまさらですが分かりつつあります。
花姥
2009年10月23日 11:46
こんにちは
これはわたしの最も好きなエピソードの一つです。
Yuteさんと同じく、何度読み返しても心もまなこも潤ってしまう一話です。
ここまでの状況描写は海音寺さんならではですね。
再度、三者三様の偉大さを実感しました。
モモタ
2009年10月23日 18:08
花姥さん、こんばんは。コメントありがとうございます。

やはり歴史は文学で学んでこそ心に残るんですよね。それにしても、勝海舟もそうですが、馴染みのあった人々にとって、西郷の死は言いようもないほどの衝撃だったことでしょうね。

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