天皇だって人間だ

明治天皇は「日本を近代国家に変革した偉大な指導者」として語られることがあります。現に、明治天皇は優れた人格者だったそうですが、その人格は一朝一夕で形成されたものではありません。天皇だって人間です。幼い頃は人物的に未熟であり(あたり前すぎて変な文章になってしまった)、精神的な修養を積むことによって、立派な人格を築き上げたのです。

明治天皇は江戸幕府の将軍に対抗するための「権威」として薩長勢力に担がれ、維新が完成したことで新国家の元首におさまりました。
一部の公家はいたものの、新政府を主導したのは武士たちであったため、明治天皇は

 「武士の思い描く理想的な君主」

たるべく、独特の教育を受けることになりました。その教育は明治天皇が16歳のころに始まったとされます。

京都時代は即位前でもあり、宮廷で女官に囲まれながら、のうのうとして日々暮らしていればよかったものが、天皇として即位し、しかも新国家の精神的な支柱となるべく教育を受けるのです。この環境変化が明治天皇にとって大きなストレスであったことは想像に難くありません。

実際に、当初の明治天皇の教育は上手くいかなかったようです。ドナルド・キーンが『明治天皇』(新潮文庫)で書くところによると、

 
治世のこの時期、未だ明治天皇は周囲を取り巻く優れた人材に頼らざるを得ない経験未熟な若者だった。これら取り巻きの人物たちの態度は敬意に満ち、紛れもなく天皇を自分たちの君主として崇敬していた。しかし、同時に彼らの持つ政治、軍事のみならず文学、哲学にまで及ぶ知識は、むしろ天皇を怖じ気づかせることになったかもしれない。木戸が愚痴をこぼしているごとく、天皇は学問に対する熱意に欠けているかのように見えた。或いはそれは、いくら努力しても彼らの完成の域には達することが出来ないのではないか、という天皇の諦めにも似た気持ちから出たものであったかもしれない。


ということです。

学問による人格の陶冶は、言うは易く、行うは難しいものです。自分自身の成長を実感できなかった若き明治天皇は、時として現実逃避に走ることがあったようです。そこには、体よく言い訳できる格好の逃げ場所がありました。宮中の奥で女色に耽ることです。

これは現在の皇室が抱える問題にもつながりますが、維新による新国家の体制を盤石とするためにも、明治天皇は早く跡継ぎに恵まれることが求められました。そのためなら女性は選り取り見取りです。もちろん、当時の観念では側室を置くことはごく当たり前の行為です。
その状況を同じくキーンの『明治天皇』から引用すると、

 
まだ二十歳に満たない、それも子供を出来るだけ早く作らなければならないという精神的重圧にさらされた若者が、勉学をそこなうまでに肉体的快楽に走るかもしれないということは容易に想像できる。(中略) 天皇の気持ちは、どうも学問以外のことに向けられていたようだった。この年、木戸は天皇の侍読たちから要請を受け、学問の研鑽を重ねることで皇統を継ぐに値する人物であることを示すように天皇に勧めている。或いはこれは、天皇が女性と時を過ごしすぎることへの遠回しな警告であったかもしれない。


とあります。ここで登場する「木戸」は木戸孝允(桂小五郎)です。

こうした明治天皇の状態を憂慮し、思い切って宮中改革の大鉈を振るったのが西郷隆盛です。改革の目的は、天皇を取り巻く女官たちが政治に口出しするのを封じすること、そしてもう一つが明治天皇の教育問題でした。
そのあらましは海音寺潮五郎さんの『日本の名匠』に出ています。引用すると、

 
同時に、天皇の側近に侍する者は堂上の出身でなければならない制度であったのを、武士階級からも任用する制度に改めた。こうして任用された人々は、宮内大丞には吉井友実、侍従には村田新八、山岡鉄舟、島義勇、高島鞆之助、米田虎雄等だ。(中略)

 この人々は山岡や島義勇を見てもわかるように、いずれも誠実で、硬骨で、豪傑肌合の人ばかりだ。西郷は天皇を英雄・豪傑にしたてまつろうと考え、この人選をしたのであろう。当時の世界の大勢から見て、英雄的君主でなければ、日本は立ち行かないと見たからであろう。(中略)

 従って、豪傑連にも、自分の意のあるところを説き、豪傑連も大いに共鳴したに相違ない。
西郷がえらんでつけたほどの連中だから、日常の会話なども、誠実さと英気が横溢していて、天皇は大変お気に召し、奥御殿にはほとんどお入りにならず、この人々のいる表御殿にばかりいらせられたという。


山岡鉄舟は幕臣であったため、新政府に出仕することを潔しとしませんでしたが、それを西郷が「10年間だけ」という約束で説得したこと。そして10年後(その頃、西郷はこの世にいない)、鉄舟は西郷との約束によって侍従を辞任したことは以前紹介しました

この改革がどのような効果を上げたかについては、西郷が親類の椎原与三次に出した手紙に出ています。同じく『日本の名匠』から引用すると、

 
士族からお召出しになった侍従らはとりわけご寵愛で、実にお盛んなことであります。奥御殿にお出になることは至ってお嫌いで、いつも朝から晩まで表御殿にいらせられ、和・漢・洋の学問にお励みで、侍従らと会読を遊ばされることもあり、ご寸暇かくご修業におつとめであります。服装なども従来の大名などよりはるかにご質素で、修業にご勉励のご様子は、中流階級の子弟などより格別まさっておられます。三条公や岩倉公も、これまでのみかど方とはよほどにご日常がかわってお出であると申しておられます。


とあります。

西郷の改革は成功したのです。
明治天皇は後々、日本国民の尊崇を集めるにふさわしい君主に成長します。
 「明治天皇は天性英邁であったから」
と評するのは簡単に過ぎて的を射ていません。その成長の過程にはこうした苦労、人格陶冶のための鍛錬があったということなのです。


短期連載:天皇だって生きている

 ・天皇だって生きている

 ・天皇だって人間だ

 ・明治天皇と西郷隆盛

 ・明治天皇と山県有朋

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この記事へのコメント

花姥
2009年09月26日 17:37
周りに素晴らしい人材を配してこそ、偉大な指導者、英邁闊達、深淵熟慮の人格が育つのですね。
それにしてもすばらしい人選であり、すばらしい人材が集まりましたね。
現代においてもこのような人材が渇望されますね。
そうなれば、今上両陛下のご心労、ご苦労も軽減されるのではないでしょうか。
モモタ
2009年09月26日 19:34
花姥さん、こんばんは。

やはり、大事なのは環境だということでしょうね。明治天皇は、周囲の期待にこたえるべく生涯かけて努力したようです。その結果、後世に残る名声を得たわけですが、それが明治天皇にとって幸せなことだったかどうかは疑問があります。

私の率直は感想としては、天皇であるということは、その本人にとって、とてつもなく苦しいことなのではないかと思います。

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