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zoom RSS 海音寺潮五郎 戦地をゆく(その5)

<<   作成日時 : 2009/11/18 19:03   >>

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大所高所から歴史を語ると、得てして人間を見失いがちです。海音寺潮五郎さんが従軍した件も、「太平洋戦争当初、軍に徴用された多くの作家が戦地に赴いた」とでも言ってしまえば、それは無機質な歴史の1シーンに過ぎなくなります。しかしどんな歴史上の事件も、その当時に生きていた生身の人間によって作られたのです。その生身の感覚なくして、真に歴史を理解することはできないと私は思います。そうした観点から、陸軍報道班員の生身の感覚が分かる逸話を紹介します。

例によって、出典は海音寺潮五郎全集第21巻です。まず登場するのは、海音寺さんと同時に徴用された岩崎栄氏です。

 
あわれをとどめたのは、岩崎栄君であった。彼の令書には四十二歳と記載してあったが、本当は五十二歳であった。明らかにこれは間違えて徴用されたのだ。彼は言った。
「ここに記載してある年齢は間違いです。ぼくは五十二歳です。どうも年をとりすぎているので、御奉公に、はなはだ自信がないのですが」

旧日本軍部は、ぜったいに自己の過失を認めなかった。こともなげにこうこたえた。
「ああ、そうですか。しかし、年は直せばいいのです。どうです。行ってくれませんか。」
しかたがない。
「まいりましょう」
と、答えざるを得なかった。


「旧日本軍部は、ぜったいに自己の過失を認めなかった」ということですから、「年は直せばいいのです」と言いながら、修正しなかったのでしょう。さすがに52歳という年齢では徴用の対象外となるはずで、人選に過失があったことがバレてしまいますから。
この年齢で戦地に連れ出されたら、無事に帰ることはできないかもしれない。そうした思いが当然岩崎氏の脳裏をよぎったことでしょう。

次は中村地平氏です。報道班員が大阪の部隊に入隊し、いよいよ戦地に向けて出発する日の出来事として、次のようなことが書かれています。

 
この時、中村地平君は、駆け出すはずみにあの長い足に軍刀をからめせて、ステンところんだ。中村君は兄さんを支那戦線で戦死させている。地平君は、御両親にとってはたった一人のこる男の子だ。これが軍隊の一員として外地に征くというので、御両親は遠い九州からわざわざ見送りに来ておられた。彼は入営の日にも、集合場所で両親の見ておられる前で、軍刀に足をからませてころんだり、かと思うと軍刀のおっこったのも知らないで平気で歩きまわったりしたのであるが、今また出発にあたってころんだのだ。
「地平さんのお父さんとお母さんが、かなしそうな顔してたよ」
と、井伏君は言うのである。


ウィキペディアの情報が正しければ、中村地平氏はこのとき33歳。この年齢になって上記の様子では、両親の心配もさぞ深刻だったことでしょう。こうした心情は子を持つ親になってはじめて、心底理解できるものだと思います。

それにしても、これらの作家達はなぜ徴用されることになったのでしょう。何か選出の基準があったのでしょうか。
これについては半藤一利さんの著作(『坂口安吾と太平洋戦争』)に少し情報があります。それによると、これまた海音寺さんと同じくマレーに従軍した中島健蔵氏が戦後に書いた文章に次の記述があるそうです。

戦後になって、僕も多少は調べてみたが、懲用的な意味については噂にすぎないように思う。徴用関係は一般に厚生省の所管で、東京都が委嘱をうけてその事務を担当していた。文化人の場合は、参謀本部のある人間が、中央公論や改造や文藝春秋の古い目次のなかから、これはという基準もなくチェックしていった、というのが真相のようである


「懲用」というのは共産主義者など反国家的思想をもった人物を懲罰的に労役に従事させるということですが、それはあくまでも噂であったというのが中島健蔵氏の見解。半藤一利さんもそれを支持しています。
「文藝春秋」から「適当に」作家を選出したのだとすれば、海音寺潮五郎さんに白羽の矢が立つのも頷けます。逆に「白紙」を受け取ったことは、一流作家として認められた証だとする見方もあったそうです。

さて、報道班員達の出征前の逸話を長々と書いてきましたが、ここにある通り、人々は様々な思い胸に戦地に旅立っていきました。その締めくくりとして海音寺潮五郎さんの例「ぶった斬ってみろ!!」伝説を、海音寺さんの著述からもう一度検証してみましょう。

海音寺さんをはじめ、徴用された作家達は、
「昭和16年11月22日、10時に大阪の二十二部隊に入れ」
という指示を受けて、指定場所である大阪城天守閣下の紀州御殿に集まったそうです。

その際、海音寺さんは伝説にある刀を持参してはいませんでした。徴用令書には
「軍刀の用意のある者は持参せよ」
とあり、海音寺さんは当然のように刀を所有していたのですが、

ぼくはカーキー色の協和服に共布のハンチング、刀は携えなかった。東京の家にある刀がきゃしゃすぎる上にナマクラなので、国に電報を打って二十二部隊あてに送るように言ってやっていたのだ。この翌日、この刀は到着した。同田貫広宗、刃渡り二尺七寸五分、柄の長さを加えれば四尺に近い剛刀だが、堆朱の鞘の肥後ごしらえで、一見したところは剛刀らしくなく、甚だ優美であった。


ということです。
これまたウィキペディアの記述を信用すると、江戸時代の刀は二尺三寸(約70cm)が定寸だったということですので、刃渡り二尺七寸五分(約83cm)は明らかに長い部類になります。

その剛刀が手元に届いた日、陸軍入隊の宣誓書にサインした後、例の事件が起こります。事件が起こるにはそれなりの伏線がありました。ここでは詳しく説明しきれませんが、海音寺潮五郎さんは軍の徴用作家達への扱いに大きな不満をもっていたそうです。
その事件の様子ですが、

その夜、ヒゲ中佐は、ぼくらに宣誓書を入れさせた後、一場の演説をこころみた。
彼はおそろしく興奮して、ついにこう口走った。

「おれの言うことを聞かんやつは、ブッタ斬る!」
おさえにおさえていたぼくの憤懣は、もう制御がつかなかった。どなりかえしていた。

「何を言う!ブッタ斬るとは何だ!」
ぼくはただこう叫んだだけであったが、これがキッカケになって、あちらからもこちらからも質問の形式で、皆が文句を言いはじめた。
中佐はついに立往生だ。
「お前らみたいに口から先に生まれた者、おれはよう連れて行かん!」
と悲鳴を上げた。


ということだったのです。
この後、例の伝説についての説明も書いています。

この話が、後には「無礼者!ブッタ斬るとは何だ。オメオメと斬られはせんぞ」と、ぼくが言って、二尺七寸五分、同田貫広宗、朱鞘の剛刀のコジリをドンと床につき立てたという工合になった。
小説家が多いから、色々と創作が加わる。しかし、事実は上述の通りだ、いくら時代ものの作家でも、そうまで大時代なセリフは出ない。


これですっかり事実は明らかになりました。ちなみに、「ヒゲ中佐」と呼ばれている海音寺さん達の上官については、別途説明する機会があると思います。
ともかく、こうして陸軍報道班員たちはこの年の12月2日、「あふりか丸」という船で戦地に向けて出港しました。続きはまた次回で。


特別企画:海音寺潮五郎 戦地を行く

 ・海音寺潮五郎 戦地をゆく

 ・海音寺潮五郎 戦地をゆく(その2)

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 ・海音寺潮五郎 戦地をゆく(最終回)

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