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大久保ヤマトさんも応援しています
このブログでの活動を通じて知り合った大久保ヤマトさん。「猛将妄想録」というサイトを運営されています。リンク先をご覧いただけばお分かりのように、日本史(主に戦国時代)を素材にマンガ形式で作品を発表されています。
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2011/02/16 18:59 |
このブログについて
作者のモモタです。
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2011/01/29 07:19 |
再起動?
みなさま、すっかりご無沙汰しています。このブログの管理人・モモタです。昨年度末から新年度にかけて、公私共に何かと多忙だったため、ついついブログをほったらかしにしてしまっていました。
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2010/09/08 13:33 |
海音寺潮五郎と山本周五郎
テレビ朝日系列で山本周五郎氏の「樅の木は残った」をドラマ放映していたのに触発されて、海音寺潮五郎さんと山本周五郎氏の絡みについて少し書きます。
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2010/02/21 14:30 |
君子は清貧を楽しむ
司馬遷の「史記」列伝の巻頭を飾るのは「伯夷列伝」です。司馬遷が列伝の最初に伯夷(とその弟の叔斉)を取り上げた理由については、韓愈(韓退之)の言葉をもとにした海音寺潮五郎さんの解釈を以前紹介しました。
史記は単なる歴史書ではなく文学作品でもあるというのが海音寺潮五郎さんの見解ですが、その文学作品が後世に及ぼす影響の遠大なこと、例えば、水戸光圀の人生に見ることができます。
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2010/02/15 22:05 |
海音寺潮五郎ブログの実績 2009年下半期
毎度恒例の「海音寺潮五郎応援ブログ 〜塵壺〜」の定点観測を公開します。いつもの通り、ブログに張ってあるAmazon.comへのリンクをどのくらいの人がクリックしたのか?そして、どのくらいの人が海音寺潮五郎作品を購入してくれたのか?についてです。比較参考の為に、昨年上半期の実績も記載しておきます。用語の説明は本エントリの末尾にあります。
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2010/01/12 21:34 |
海音寺潮五郎 戦地をゆく(最終回)
海音寺潮五郎さんは陸軍報道班員として約1年間マレーにいました。主な滞在地はクアラルンプールです。同時期に戦地入りした報道班員の中には戦死した人もいますが、海音寺さんは無事に任務期間完了で帰国できました。マレー作戦という成功を収めたため作戦に従軍できたことはある意味で幸せでしたが、日本とは異なる現地の過酷な環境は海音寺潮五郎さんの身体を蝕み、肺浸潤や胃潰瘍を発症しての満身創痍での帰国でした。
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2010/01/11 14:13 |
海音寺潮五郎 戦地をゆく(その11)
マレー作戦従軍中の海音寺潮五郎さんの反骨行動を何回かに分けで紹介してきましたが、こうした行動が祟り、海音寺さんは日本がマレー半島経営の中心拠点としたシンガポール(昭南島)に入れませんでした。本来、前回紹介するつもりだった内容ですが、分量の関係で書ききれなかったため、以下、概略を紹介します。まず登場するのは、例の「ヒゲ中佐」です。
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2010/01/06 21:39 |
海音寺潮五郎 戦地をゆく(その10)
海音寺潮五郎さんらがマレー作戦に従軍している頃、日本国内の文壇は戦争協力の動きを強めていました。昭和17年5月、「日本文学報国会」が結成されたのです。何度か引用している資料(『坂口安吾と太平洋戦争』半藤一利)によると、遂行中の戦争が「国家総力戦」であることを念頭に置いて、総力戦のために文学者の大同団結を目的とする会だったそうです。
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2009/12/30 09:06 |
海音寺潮五郎 戦地をゆく(その9)
海音寺潮五郎さんの従軍記が戦争らしい生々しさを感じさせないのは、役目がら、戦闘の最前線に出なかったからのようです。文人が従軍する本来の目的は、自軍の戦勝を文学化し、戦争行為を讃美することによって国民を戦争支持に誘導することにあります。ところが、戦地での海音寺さんの所属は「資料班」ということで、目を向ける相手は国内ではありませんでした。これについては、『海音寺潮五郎全集第21巻』収録の「南征茶記」に次のように書かれています。
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2009/12/28 17:29 |
海音寺潮五郎 戦地をゆく(その8)
前回、英国の軍事拠点シンガポールを日本軍が攻略したところまで話を進めました。しかし、海音寺潮五郎さんを中心に語るには、ここに至る以前に面白い逸話をいくつか残しています。話は陸軍報道班員として従軍した作家達が「あふりか丸」でマレー半島に向う途上、サイゴンにいた頃に遡ります。
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2009/12/26 15:17 |
海音寺潮五郎 戦地をゆく(その7)
「海音寺潮五郎 戦地をゆく」と題していますが、戦時らしい内容にあまり触れられていません。というのも、私程度の歴史知識と歴史解釈では、かつて日本が行った戦争をどう扱えばよいのか?適切な答えを見つけきれないためです。戦争そのものが悪なら「喧嘩両成敗」的解釈が日本人の心情には合致するのでしょう。しかし、「勝てば官軍、負ければ賊軍」で、旧日本帝国・旧日本軍だけを「完全なる悪」として断罪するのが現在の日本での「模範解答的歴史解釈」です。本当にそれでいいのでしょうか?
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2009/12/11 18:08 |
海音寺潮五郎 戦地をゆく(その6)
太平洋戦争の開幕といえばハワイの真珠湾攻撃、それはそのまま「だまし討ち」という印象です。私も幼い頃「だまし討ち、だまし討ち」と散々聞かされた覚えがあります。私は最近まで近代史に興味がなく、この「だまし討ち」を詳しく知る機会はありませんでした。しかし調べてみると、日本の外交用暗号を解読済みの米国首脳にとってはだまし討ちではなく、日本が戦争手段に訴えることは既定の事実だったそうです。今回の本題ではないので深入りしませんが、この真珠湾攻撃と同時期に東南アジア方面で展開されたのがマレー作戦で、これに海音...
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2009/11/22 07:38 |
海音寺潮五郎 戦地をゆく(その5)
大所高所から歴史を語ると、得てして人間を見失いがちです。海音寺潮五郎さんが従軍した件も、「太平洋戦争当初、軍に徴用された多くの作家が戦地に赴いた」とでも言ってしまえば、それは無機質な歴史の1シーンに過ぎなくなります。しかしどんな歴史上の事件も、その当時に生きていた生身の人間によって作られたのです。その生身の感覚なくして、真に歴史を理解することはできないと私は思います。そうした観点から、陸軍報道班員の生身の感覚が分かる逸話を紹介します。
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2009/11/18 19:03 |
海音寺潮五郎 戦地をゆく(その4)
話は海音寺潮五郎さんが「白紙」で徴集を受けた昭和16年のことです。軍隊への召集といえば「赤紙」の印象ですが、海音寺潮五郎さんの場合は「白」でした。兵隊として軍隊に「召集」される場合が「赤」。兵隊ではなく、軍事を周辺から支援する活動に「徴用」される場合は「白」と決まっていたそうです。兵隊として軍隊に召集されるのは建前では名誉なことですが、本心では嫌なこと、忌まわしいこと、できれば避けたいことだったでしょう。これは徴用についても同じです。海音寺潮五郎さんの作家仲間では徴用をうまく免れた人もいました。...
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2009/11/14 06:31 |
海音寺潮五郎 戦地をゆく(その3)
太平洋戦争は真珠湾攻撃で幕を開けましたが、当時の日本はそれ以前、既に中国大陸で戦争(日中戦争、日支事変、支那事変などと呼ばれる)を遂行中でした。日本軍は首都南京を攻略しますが、国民党政府は首都を大陸奥地に移転して抵抗を続け、戦争は長期化の様相を呈していました。そんなとき、日本軍は国内世論を望ましい方向に誘導すべく、メディアの力を本格的に利用することを画策します。それに呼応したのが、当時の文壇の権威・菊池寛でした。
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2009/11/07 08:28 |
海音寺潮五郎 戦地をゆく(その2)
昭和16年(1941年)、海音寺潮五郎さんは陸軍報道班員として徴用されました。41歳のときのことです。しかし、それよりもかなり以前の大正10年(1921年)に徴兵検査を受けたという話が『日、西山に傾く』に出ています。それによると、
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2009/11/03 13:36 |
海音寺潮五郎 戦地をゆく
海音寺潮五郎さんは陸軍報道班員として徴用され、太平洋戦争開戦当初のマレー作戦に従軍しています。当時のことで面白い逸話をいくつか残していますが、事実(史実?)を面白おかしく脚色して世に広めたのは、一緒に従軍した井伏鱒二氏だそうです。おそらく様々な場所で当時のことを執筆し、それが次第に広まったのだと思います。今日は私の手元にある資料から、「伝説のはじまり」を紹介します。
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2009/11/02 13:10 |
山県有朋と桐野利秋
山県有朋は長州藩出身の出自を利用して、維新後の新政府で高位高官に上りました。元来、山県の家は「蔵元附中間組」という格で、武士とは認められない最下層に属していましたところが、高杉晋作が創設した奇兵隊に参加して出世の糸口をつかみます。結果的には位人臣を極め、死後「枢密院議長元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵」と墓誌に刻まれるまでになります。そんな山県有朋の若い頃のこととして次のような逸話が伝わっています。
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2009/10/31 07:19 |
明治天皇と山県有朋
幕末動乱の中、京都にいた天皇は江戸の将軍に対抗する権威として薩長勢力に担ぎ出されました。「天皇」という存在は、政争を有利に運ぶ手段として注目をあびた面が強かったため、薩長の武士達は天皇を道具として利用しただけで、その実、全く尊崇などしていなかったのだという主張が存在するそうです。こうした俗説、単なる思いつきの主張が、国民の歴史理解を誤ることが甚だしいと海音寺潮五郎さんは嘆いています。例えば、大長編史伝『西郷隆盛』の第8巻に次のように書かれています。
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2009/10/24 07:54 |