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「人間万事塞翁が馬」という故事成語があります。前回、井伊直弼が江戸時代末期の動乱時代に大老に就任したことを「不幸にして」と表現しましたが、この「塞翁が馬」の話が最もよく当てはまる事例の一つが井伊直弼の人生です。今回もまた海音寺潮五郎さんの大長編自伝『西郷隆盛』から勉強してみましょう。 良く知られている話ですので、ざっくりと説明するに留めますが、井伊直弼は彦根井伊家の藩主であった父・直中の14番目の子供でした。当然、井伊家の跡継ぎになれるような地位ではありません。こういう場合、他の大名家などへ養子に行けるように運動するのですが、井伊直弼の場合はその運動もうまくいかず、ただ年老いて死ぬのを待つばかりの立場でした。 ところが、井伊家の跡継ぎであった直元が病死した際、代わって跡継ぎになるべき兄たちは既に死んでいたり、他家へ養子に行っていたりしたため、直弼が跡継ぎになりました。それから程なく井伊家当主の直亮が死んだため、直弼が当主として立つことになったわけです。 このような奇異な経緯で直弼が井伊家の当主になったのが、ペリー来航の2年前というのですから、いかにもタイミングが悪いと言うしかありませんね。 しかも、井伊家というのは単なる大名ではありません。徳川家の譜代大名であり、さらには幕府政権の最高職である大老に就任できる家柄だったのです。井伊家の当主であっても誰もが大老になれるわけではありませんでしたが、井伊直弼はその大老に就任しました。つまり地位を極めたのです。喜んだことでしょう。しかし、これも全て「塞翁が馬」です。 井伊直弼は動乱時代に幕府政治を取り仕切るだけの知識も手腕も持ち合わせていませんでした。施策は多くの人々の反感を買い、それは井伊直弼に対する恨みへと増幅し、ついには桜田門外の変で暗殺されるに至るのです。 この暗殺について、海音寺潮五郎さんの『西郷隆盛』に次のような記述があります。これは福地桜痴が『懐往事談』に書いている内容を引用しているのですが、井伊大老が暗殺されたという情報を聞いた福地桜痴は、 「変報を聞いたのは三日の正午であった。くわしく聞きたいと思って、雪の中を友人の宅に行ったところ、いずれも皆愉快愉快と叫んで、一人として憂え悲しんでいる者は、幕府の進歩党や開国党の中にはなかった。森山多吉郎(外国局上司)氏のごときは、これから開国の気運が盛んになるであろうと、うれしげであった」 とのことです。 これを評して海音寺潮五郎さんは、 こうなると、井伊は攘夷党からも開国党からもきらわれていたと言わなければならない。 井伊に愛国心がなかったとは思われない。尊王心がなかったとも思われない。幕府にたいする忠誠心はもちろんあったはずだ。だのに、こんなにきらわれたとは、気の毒な人である。 と述べています。本当に気の毒だと思いますね。身は殺されて、それを知った人が悲しみもしないのですからね。 もちろん、こういう結末に至る原因は井伊直弼本人にあるわけなのですが、もし井伊家の当主にならなければ、こんな無惨な最期を迎えることもなかったでしょう。それを思うと「人間万事塞翁が馬」なのです。
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モモタさん、こんにちは。 |
花姥 2008/01/05 14:56 |
こんにちは。 |
モモタ 2008/01/06 07:57 |
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