海音寺潮五郎 戦地をゆく(その7)

「海音寺潮五郎 戦地をゆく」と題していますが、戦時らしい内容にあまり触れられていません。というのも、私程度の歴史知識と歴史解釈では、かつて日本が行った戦争をどう扱えばよいのか?適切な答えを見つけきれないためです。戦争そのものが悪なら「喧嘩両成敗」的解釈が日本人の心情には合致するのでしょう。しかし、「勝てば官軍、負ければ賊軍」で、旧日本帝国・旧日本軍だけを「完全なる悪」として断罪するのが現在の日本での「模範解答的歴史解釈」です。本当にそれでいいのでしょうか?

今回、太平洋戦争を中心とする近代史を振り返り、あらためて驚いたのは、当時の東南アジア諸国がほとんど全て欧米の植民地支配にあったことです。独立国として存続していたのはほぼタイ(シャム)のみで、その他は、

 現在のベトナム、カンボジア、ラオスが「フランス領インドシナ」
 ミャンマーからバングラディシュ、インドにかけてが「イギリス領インド」
 マレーシア、シンガポールがこれまた「イギリス領マレー」
 インドネシアが「オランダ領東インド」
 フィリピンがアメリカ領


という具合でした。
知っている人には当たり前の知識ですが、こうしたアジア諸国の惨状を踏まえなければ、当時の日本の置かれた情勢、日本人が感じたであろう危機感、そして最終的に戦争という手段を選択した日本の立場を理解することはできないと思います。

ともかく、日本は戦争に踏み切りました。そして真珠湾攻撃、マレー作戦などの緒戦では大成果を収めました。日本国内メディアは、その成果を大々的に宣伝し、国民を熱狂させました。
当時、大きな力を持ち始めたメディアは「ラジオ」だったそうです。これはリアルタイム性に優れた情報を提供できる点に特長がありました。

次は「新聞」です。満州事変以降、新聞の発行部数は順調に右肩上がりを続けています。資料(『検証 戦争責任』中公文庫)によると、昭和6年から昭和16年にかけての発行部数推移は、
 毎日新聞が約1.5倍
 朝日新聞が2倍強
 読売新聞が約5倍

という具合だったそうです。

それに続くのが海音寺潮五郎さんにも関わりのある「雑誌」で、当時のこれらのメディアが戦勝報道によって世論を湧き立たせ、日本国民を「戦争支持」に導く働きをしたのは事実です。
もちろん、軍を中心とする国家が言論誘導した側面はありますが、当時発表された様々な文書を私が読んだ印象では、

 日本人は戦争を肯定的に捉え、戦勝を心から喜んでいた

と強く感じます。

例えば、マレー作戦が成功を収めた後、軍関係者の現地体験記が朝日新聞に掲載され、それを読んだ日本人の多くが熱狂しました。その結果、読書感想文ともいうべき数々の言論が発表されていますが、そこに当時の日本人の偽らざる心境を見るような気がします。

資料(『大本営発表 シンガポールは陥落せり』 櫻本富雄 青木書店)から部分的に抜粋して紹介すると、

本多顕彰(法政大学文学部教授):
 私は一気にあれを読了し、将兵の絶大の労苦に感謝しつつも、ある将軍が私に洩らした「味方の兵隊さえ死ななければ戦争くらい面白いものはない」という言葉が、全く本当だと思いました。

板垣直子(文芸評論家):
 四月八日に発表された「マレー戦争報告」はいろいろな意味から感動をもって一気に読み終え、読後も深い感動をもちました。が、それを現地報告という「文学」として考える時に、やっぱり実際に戦った人でなければかけない報告であることを感じました。大東亜戦争でも、最も優秀な現地報告の文学は、作家などからではなく、実戦に参加した将兵の間から生まれるのではないでしょうか。

河盛好蔵(立教大学教授):
 「マレー作戦報告」を読んだとき、正義の戦いというものは実に面白いものだ、素晴らしいものだというのが正直な最初の感想でありました。

今村太平(映画評論家):
 これを読んでつくづく思うことは、今の映画も文学も、この偉大な現実のほんの一端さえ反映していないということです。そうなると、芸術について大いに反省させられます。


等々です。
ちなみに「軍関係者の現地体験記」とは、悪名高き辻政信の談話『陸軍省報道部機密文書・馬来方面作戦主任参謀談』のことだそうです。

挙げたのはごく一部ですが、こうした日本人の言論を現在の視点から

 戦争賛美だ!、軍国主義だ!

と非難するのは簡単です。
しかし、東南アジアが欧米に植民地支配されていた当時の状況とあわせて考えると、日本人の心情が素直に表現されていると私には感じられます。
さらに言えば、マレー作戦よりも真珠湾攻撃の成果にこそ、日本人は酔いしれました。こちらについても、日本軍を称える数々の言論が発表されています。吉川英治

 「人にして軍神---あヽ特別攻撃隊九勇士」

などはその最たるものですが、また別途紹介する機会があるでしょう。

さて、こうした状況の中、マレー作戦に従軍していた海音寺潮五郎さんはどのような活動で皇軍に「ご奉公」していたのでしょうか?
これについても同じく『大本営発表 シンガポールは陥落せり』に情報があります。それによると、英軍の軍事拠点シンガポールの攻撃を目前にして、日本軍は英国軍司令官宛に

 「無血降伏の勧告状」

という降伏勧告をおくります。この文章の作成に関わったのが海音寺潮五郎さんなのだそうです。(他には、小栗虫太郎、小出英男、若松宗一郎、比良木秀水などが関与)

この「無血降伏の勧告状」ですが、資料(『大本営発表 シンガポールは陥落せり』)によると、日本敗戦後、東京裁判に出廷した英軍のワイルド大佐の証言でその内容を伺うことができます。以下、引用します。

検察官 英軍降伏前に、山下将軍は英軍に対して文書もしくはその他の方法で降伏勧告をはっせられましたか。

証人 二月十日に一通の書簡が投下され、それはパーシバル将軍宛のものです。(中略)その書簡で山下将軍は、一般非戦闘員の住民の生命を保障するということでした。一般非戦闘員というのは全人口百万の四分の三、即ち七十五万の数に達しておったのであります。もしシンガポールに日本軍が総攻撃したならば、約二十五万の一般市民が悲惨な目にあうだろう。そういう悲惨な目にあわせるのは可哀想だから降参せよ、というのです。


ここにある「山下将軍」は山下奉文のことで、マレー作戦の主力である第25軍の司令官でした。

この降伏勧告状は、まさに「江戸無血開城」のシンガポール版とも言うべき内容だったと推測されます。当時のシンガポールが100万人もの人口を擁していたかどうか分かりませんが、これは江戸開城での「江戸城下百万の生霊が云々」というのに奇妙に合致しています。

当時の海音寺潮五郎さんはまだ『江戸開城』や『西郷隆盛』などの作品を執筆していませんが、西郷隆盛と勝海舟の交渉による江戸無血開城は日本人の常識でしたから、それをイメージした内容になったのでしょう。

ただし、こうした「武士の情け」的な降伏勧告は英軍に通じず、結局、戦闘によって力ずくで降伏させることになります。その影響と言えなくもないでしょうが、日本軍はシンガポール占領後、住民の虐殺事件を起こしています。
このあたりの話に接すると何とも嫌な気分になります。虐殺を主導したのは辻政信だと言われていますが、これもいずれ触れる機会があるでしょう。


特別企画:海音寺潮五郎 戦地を行く

 ・海音寺潮五郎 戦地をゆく

 ・海音寺潮五郎 戦地をゆく(その2)

 ・海音寺潮五郎 戦地をゆく(その3)

 ・海音寺潮五郎 戦地をゆく(その4)

 ・海音寺潮五郎 戦地をゆく(その5)

 ・海音寺潮五郎 戦地をゆく(その6)

 ・海音寺潮五郎 戦地をゆく(その7)

 ・海音寺潮五郎 戦地をゆく(その8)

 ・海音寺潮五郎 戦地をゆく(その9)

 ・海音寺潮五郎 戦地をゆく(その10)

 ・海音寺潮五郎 戦地をゆく(その11)

 ・海音寺潮五郎 戦地をゆく(最終回)

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