明治天皇と山県有朋

幕末動乱の中、京都にいた天皇は江戸の将軍に対抗する権威として薩長勢力に担ぎ出されました。「天皇」という存在は、政争を有利に運ぶ手段として注目をあびた面が強かったため、薩長の武士達は天皇を道具として利用しただけで、その実、全く尊崇などしていなかったのだという主張が存在するそうです。こうした俗説、単なる思いつきの主張が、国民の歴史理解を誤ることが甚だしいと海音寺潮五郎さんは嘆いています。例えば、大長編史伝『西郷隆盛』の第8巻に次のように書かれています。

 
以上のことは『大久保利通日記』によって記述したのだが、ここで天皇のことを「玉」といっているというので、天皇を道具あつかいにしているのだと見る歴史学者や評論家が戦後相当出て来た。こういう議論は権威破壊的な痛快さがあるので、面白がり、信奉する人が多く、一種のブームとなったが、俗論にすぎない。「王」と直接にさして呼ぶのをはばかって、一点を加えて玉としたのである。


これは例えば、将棋に親しみのある方には素直に理解できるでしょう。将棋では「王将」を「王」とは呼ばず、「玉(ぎょく)」と呼びます。身分の高い人を呼ぶ際に、直接的な表現を避けるのはごく普通の慣習で、「上様」や「殿様」も同じ理由で生まれた言葉です。

海音寺潮五郎さんの解釈では、当時の武士達の天皇に対する尊崇の念は次のように醸成されたとのことです。

天皇を宗教的にも政治的にも最尊最貴なものとして、これに絶対性を付与したのは明治初年の政治家等であり、それを取り巻く学者等であるが、天皇がそうなるべき素地は江戸時代二百七十年の間の朱子学の盛行によって徐々に醸成されて来て、幕末に日本が統一国家となって諸外国と対立しなければならなくなると、その統一の中心として皇室が考えられ、その尊貴性が急騰したのである。幕末維新の時代の志士等は大東亜戦争頃のような奇妙な天皇観などはもちろん持ってはいなかったが、道具あつかいにするような無礼さはもちろんなかった。十分な敬意と礼儀を持ち、天皇のためには死ぬことも、もちろん辞しはしなかったのである。


朱子学の影響大だというのが海音寺潮五郎さんの解釈です。
ところが、全ての志士達が本当に心から天皇を崇敬していたのかというと、多少の疑問を感じさせる人物がいます。それが山県有朋です。

維新の功臣といえば、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允と名前が挙がります。山県有朋は司馬遼太郎さんの表現を借りると、
 二流、三流であったために生き延びることができた
ような人物です。
しかし、維新の中心勢力となった長州藩出身の生き残りとして、明治政府では長く重要な地位にありました。

その山県有朋の明治天皇への接し方について、驚くような逸話が残っています。それを半藤一利さんの『山県有朋』(PHP文庫)から紹介します。

七月十五日、天皇は枢密院の会議に出席した。このとき天皇はそれまで一度もなかったことであるが、(中略)うとうとと仮睡した。山県は、議長席にあってめざとくそれを見つけると、軍刀の先で床を強く何度も叩いた。そのきびしい音によって、天皇を目覚めさせ姿勢を正させたのである。山県が尊崇したのは、かれの理念にそうような天皇でしかなかったのではあるまいか。


ということです。
これでは身分の上下も何もあったものではありません。天皇への崇敬の念は微塵も伺えません

しかし、山県の行為が礼を失したものであるにせよ、重要な会議で居眠りする明治天皇にも問題がある。そう指摘する方もあるかもしれません。ところが、そうではないのです。先ほどの引用は敢えて重要な箇所を省略していたのですが、その全容を引用すると次の通りです。

 
明治四十五年七月十日、東京帝国大学に行幸の天皇は、階段を一段あがるごとに足をそろえねばならぬほど、衰弱していた。にもかかわらず、天皇はきめられた行事のために、最後の気力をふりしぼってつとめた。七月十五日、天皇は枢密院の会議に出席した。このとき天皇はそれまで一度もなかったことであるが、もう堪えられぬほど弱っていたのであろうか、うとうとと仮睡した。山県は、議長席にあってめざとくそれを見つけると、軍刀の先で床を強く何度も叩いた。そのきびしい音によって、天皇を目覚めさせ姿勢を正させたのである。山県が尊崇したのは、かれの理念にそうような天皇でしかなかったのではあるまいか。


ということだったのです。

状況理解を深めてもらうため、同じ逸話をドナルド・キーンの『明治天皇』(新潮文庫)からも引用します。

天皇は枢密院の議事に臨御した。普通であれば天皇の挙止は厳粛かつ端正で、いったん席につくと長時間にわたってほとんど微動だにしないのが常だった。しかしこの日、天皇は甚だしく姿勢を乱し、時に仮睡した。これに大臣、顧問官等は、ひどく衝撃を受けた。皇居に戻った後、天皇は侍臣に次のように語った。今日の会議は外交に関することでもあり、特に重要だったので努めて出席した。しかし疲労に堪えず、覚えず坐睡両三回に及んだ、と。


お気づきでしょうか。明治45年は7月に改元されて大正となります。これはまさにその月の出来事。明治天皇はこの後、7月30日に崩御します。

つまり「会議中の仮睡」は、明治天皇の余命の限界での出来事だったわけです。こうなると山県有朋の行為は単なる無礼を通り越して、天皇の生命への冒涜にもあたり、その人間性が疑われるところです。

現に、山県は酷薄な人物だったようです。それは彼の人気のなさに直結しています。山県は長命し、大正11年になくなりますが、彼の国葬が行われた際の様子を当時の新聞が次のように報じているそうです。(半藤一利『山県有朋』より)

「議会でも協賛した国葬だのに、この淋しさ、つめたさは一体どうした事だ。・・・席も空々寂々で、武と文との大粒ところと軍人の群で、国葬らしい気分は少しもせず、全く官葬か軍葬の観がある」


私は明治天皇の生涯、特に後半生はとても不幸だったのではないかと考えています。それは「天皇」という特別な存在であることに起因しています。
しかし他の面では、例えば道義国家の建設を理想とした人徳者・西郷隆盛が早々と側を離れ死んでいったのに対して、山県のような人物が終生そばにつきまとっていた、そんな人間関係の悪さにも依っています。

そして「軍人勅諭」や「教育勅語」など、山県が昭和という時代に与えた影響も鑑みると、山県有朋の存在はひとり明治天皇の不幸に留まらず、日本人全体の不幸につながっているのではないかとも思えるのです。


短期連載:天皇だって生きている

 ・天皇だって生きている

 ・天皇だって人間だ

 ・明治天皇と西郷隆盛

 ・明治天皇と山県有朋

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この記事へのコメント

花姥
2009年10月25日 10:50
おはようございます。
汚職事件に関わったり、玉砕の悲劇を生み出したりした人が、なぜ、元勲として居座り続けられたのだろう?といつも疑問に感じていました。
モモタ
2009年10月26日 18:59
花姥さん、こんばんは。

山県の存在は明治憲法の欠点をうまく突いたものだという解釈があります。天皇に直属する軍部の力を背景に権力を握ったということなのですが、ともかく山県には色々といただけないところがありますよね。

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