吉川英治と海音寺潮五郎

直木賞受賞作『天正女合戦』は海音寺潮五郎さんの初期の代表作です。この作品は千利休を芸術界の英雄ととらえ、天下人・豊臣秀吉と対比して描く独創的な構成となっています。その後の作品『茶道太閤記』でも、海音寺さんは「秀吉対利休」の構図を継承していますが、これに対して作品連載当時(昭和15年)、「国民的英雄の秀吉と一茶坊主の利休を対等の立場で描くとは何事だ!」という批判が起きたそうです。しかし、今になってみるとこの批判の趣旨はやや不明瞭です。『茶道太閤記』を批判した人々の意図を理解するには、昭和15年という時期、つまり「大日本帝国」で豊臣秀吉がどのような人物として扱われていたかに注意する必要があります。

ご存じの通り、昭和20年までの日本は明治維新の延長線上にありました。明治政府は徳川幕府を倒して成立しましたが、その徳川幕府は秀吉亡き後の豊臣家を滅ぼしたことで基盤を確立しました。

話が冗長になるので簡略化しますが、豊臣秀吉は死後、「豊国大明神」なる神として祀られていましたが、これを徳川家康が徹底的に破却します。それが明治時代になって復興され、幕府時代の反動もあって英雄秀吉が脚光を浴びることになります。
しかも、その焦点は
 日本の国威を海外に示した先駆者
にあったということです。

『秀吉英雄伝説の謎』(津田三郎 中公文庫)によれば、例えば、昭和17年1月6日、日本軍がマニラ攻略を行ったこの日、「京都日出新聞」に次のような記事が掲載されたそうです。

 
速やかに呂宋攻略
 豊太閤三百年の雄図偲び
 豊国神社で近く奉告祭り

 (後略)


大丈夫だと思いますが、「呂宋」=「ルソン」で、ルソン島にマニラ(フィリピンの首都)があります。念のため。
秀吉は「大明討入」をめざし、その行きがけの駄賃として朝鮮を血祭りにあげるつもりでした。また、遙かルソンにも使者を派遣し来貢を勧告していました。

豊臣秀吉のこれらの事績を取り上げ、大日本帝国は秀吉を
 「大東亜共栄圏」確立を目指した先覚者
として祭り上げていたわけです。
こうした施策には当時の政府や軍の意向が関わっていたと思われます。再興された豊国神社には軍人の参拝者が多かったことが同じく『秀吉英雄伝説の謎』に書かれています。

こうして見てくると、海音寺潮五郎さんの『茶道太閤記』に対する非難の意味が分かる気がします。当時の秀吉は国策的な大英雄なわけです。利休と比較されるのを好まない人もいたでしょう。
『茶道太閤記』の「解説」で磯貝勝太郎さんが書いているのによれば、

ある大衆作家のグループは、その機関雑誌で連月にわたって攻撃した


とのことで、海音寺潮五郎さんと作品への非難は激しいものだったようです。

大胆に憶測するなら、海音寺潮五郎批判を繰り広げていた人々には、政府や軍などの権力者に媚びる気持ちがあったのではないでしょうか。そうした卑しい心根が見え隠れするようです。
また、権力に媚びるまでではなくとも、祭り上げられた大英雄・秀吉は大衆受けする人物だったため、その人気に便乗する作家もいました。

その一人に挙げていいと思いますが、吉川英治の『新書太閤記』は昭和12年に連載が開始されています。これはまさに日中事変が勃発した年にあたります。連載終了は昭和20年、言わずと知れた敗戦の年です。
また吉川英治は日本軍の真珠湾攻撃成功に陶酔して、戦争を賛美する文章を発表した文化人の一人(吉川の他に小林秀雄、亀井勝一郎など多数)としても知られています。これらの事実は何を暗示しているのでしょうか?

一方で海音寺潮五郎さんは『茶道太閤記』の中で、秀吉の朝鮮出兵を利休に諫言させるという大胆なことをしでかしています。「海音寺潮五郎全集」第8巻の「あとがき」で海音寺さん自身が書いているところでは、

秀吉の朝鮮役思い立ちに、諸大名のほとんど全部は大反対でした。家康ももとよりです。とりわけ、利休は秀吉に諫言し、それがあの悲劇の原因の一つであるという説も昔からあります。わたしの小説の場合、これらは書かないで済ませれば済まされたのですが、わたしは書かないではおられない気になりました。むずむずと心をつき上げて来てやまないものがあるのです。だから、家康にそれをじゃべらせ、利休に秀吉に諫言させました。すでに外戦をおこして四年目にかかっている軍部や当局によろこばれようはずがありません。戦後に、木村荘十氏が、『よくあそこまで書いたよ。ぼくはひやひやしながら見ていた』と言ったことがあります。

ということです。
こうした態度こそ海音寺潮五郎さんの真骨頂ですが、あまりの大胆さがたたり、連載している新聞社(東京日日新聞)から「早期の連載完結」を要求されるはめになります。
海音寺さんは
 「せめてあと1ヶ月の連載を」
と新聞社に要望しますが受け入れられず、利休の諫言シーンから数日の連載で作品は終了となりました。

以上述べてきた通り、『茶道太閤記』は海音寺潮五郎さんが魂を込めた作品だったわけですが、現在では残念ならが絶版です。また、海音寺さんには豊臣秀吉を主人公とした『新太閤記』もあるのですが、こちらも絶版です。重ね重ね残念です。

海音寺潮五郎さんの作品は多くが絶版から復活して、入手しやすい状態になっていますが、まだ埋もれたままの作品も少なくありません。
今回の話をご覧になったとき、真に読み返すべき作家はどちらでしょうか。吉川英治か、海音寺潮五郎か。みなさんのお考えはいかがでしょうか。


[追記:2009/09/05]

私が参考にした資料(『秀吉英雄伝説の謎』)では、吉川英治の『新書太閤記』は昭和12年に連載開始とあったのですが、どうもこれは誤りで、正しくは昭和14年開始のようです。
ここに書かれている情報が正しいとすれば、読売新聞への連載は昭和14年1月1日~20年8月23日だったそうです。

となると連載開始とリンクするのは昭和12年の日中事変はもちろん、昭和13年の国家総動員法の成立や「東亜新秩序声明」の発表なども含めて考えるべきでしょう。特に「東亜新秩序声明」があった翌年の元旦に、当時の大人気作家・吉川英治が豊臣秀吉を主人公とする小説の連載を開始するというのは意味深な気がしますね。ちなみに昭和14年は第2次世界大戦勃発の年で、ノモンハン事件もこの年です。

大陸での戦争は深刻さを増している時期ですし、海音寺潮五郎さんの『茶道太閤記』と異なり、終戦まで長期間の連載を継続出来た背景には、国策的英雄・豊臣秀吉を描くことが政府や軍の意向に沿った(直接的な指示の有無には関わらず)ものであったからだと推測されます。

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この記事へのコメント

Yute
2009年09月05日 00:57
なるほど...面白い切り口ですね。海音寺さんの戦前の作品にはあまり馴染みがないので、参考になります。

海音寺v.吉川で思い出すのは、どこかの随筆で海音寺さんが書いてた「宮本武蔵」批判が個人的にはツボでした。詳しくは思い出せませんが、ひたすら剣の道を突き進むのはいいとして、あんなに女性の気持ちに対して鈍感で身勝手な偏ったヒーロー像は健全とは言えない、といった論旨だったと思います。これを読んだときは膝を叩いて「激しく同意」してしまいました。
モモタ
2009年09月05日 08:27
Yuteさん、こんにちは。いつもありがとうございます。

Yuteさんが言われているのは、『日本歴史を散歩する』に収録されている「日本人の理想像」の内容ですね。

その道の達人だが、なぜか女性の感情にだけは疎い主人公像として、『鳴門秘帖』の法月弦之丞をはじめ何人か挙げています。
知名度の点から後の影響を考えると、やはり『宮本武蔵』が代表格になるのでしょうか。

吉川英治の発想ではそうした人物が「格好いい」のでしょうが、海音寺潮五郎さんは「偏屈で、正常のものとは思われない」として切り捨てていますね。
こんなところからも二人の感覚の違いが伺えて面白いですね。
花姥
2009年09月05日 12:12
なるほど、モモタさんの説明を伺って、納得できました。
道理でいくら高名な、または人気の作家の作品よりも海音寺潮五郎さんの作品に惹かれる理由が分かりました。
権力に媚びるつもりはなくても、大きな力の方に靡く人たちはどこにでも必ずいるものですね。
海音寺潮五郎さんの作品に惹かれるのは、こんなまっすぐなお気持ちのせいなのでしょう。
ここにお伺いすると、いつも目から鱗の新しい発見があります。
これからもいろいろとお教えください。
Yute
2009年09月06日 00:11
そうです、それです!あぁ...すっきりしました...今晩は本を引っ張りだして読み直してみます。ありがとうございました。
モモタ
2009年09月06日 06:52
花姥さん、おはようございます。いつもありがとうございます。

海音寺潮五郎さんは作品の人気が上がり、本が売れればそれでよいという考えの持ち主ではありません。それは『天と地と』大河ドラマ化に伴う「引退宣言」に如実に現れています。

他にも人気が出ないことを分かっていながら沖縄問題を扱った『鷲の歌』を書いたり、先頃話題の『孫子』も、編集者に話を持ち込まれた際に「ブームに便乗する作品は嫌だ」として一度断っています。

こういう一徹さというか、信念を貫き通す姿勢も海音寺潮五郎さんの魅力なんですよね。

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