やっぱり瑶泉院の陰謀だった?

前に、テレビドラマ「忠臣蔵 瑶泉院の陰謀」と海音寺潮五郎さんの『赤穂義士』との対比から、ドラマと史実の違いを述べようと試みましたが、いわゆる"忠臣蔵"については後世の創作が様々に加わっているため、到底限られた文字数では説明し切れません。もちろん、ブログに文字数制限があるわけではないのですが、あまりにも長文だと読む方も興味を持続しきれませんからね。

ちなみに、ここ何回か「瑶泉院の陰謀」というドラマタイトルにあやかって書いていますが、これが他の記事とは桁違いのアクセスを集めています。テレビの威力は凄いということなのでしょうが、そんな一見さんの中から海音寺潮五郎さんに興味を持ち、本当の歴史の面白さに目覚めてくれる人が一人でも現れることを願っています。

さて、最近ではかなり当たり前の知識になってきているようですが、忠臣蔵で敵役として登場する吉良上野介は、そこで描かれているような悪辣な人物ではなかったようです。海音寺さんの『赤穂義士』によると、

彼の領地は、三州播豆郡に三千二百石、上州緑野郡に千石あるが、三州の旧領地では、今でも吉良の遺徳をしたって「忠臣蔵」の上演をゆるさず、おしきって上演すればかならず凶事があると伝えている。僕は大正の末、ここに近い三州西尾に遊んだことがあるが、附近の百姓等が、
「師直様は忠臣蔵に伝えられるような悪人ではなかった」
といって、堤防の構築、用水路の開鑿等、諄々として、その治績をかたるのをきいた。
事実、伝えられるような悪人ではなかったらしい。
(後略)

とあります。ただし、相当に傲慢な性格だったようで、それが事件の一因になっているという見方はできるようです。
一方、これまた今では当たり前の評価になっていますが、一連の事件で一番の悪者、というか不届き者は浅野内匠頭で、その評価につながる事実の一つとして海音寺さんが述べているには、

長矩は山鹿素行の軍学上の弟子だ。それは「素行日記」に明記されている。貞享元年八月十三日、長矩十八歳の時、十五歳になる弟大学とともに入門している。もし、彼がよき弟子であったなら、最初からあんな刃傷などしなかったであろう。素行の著「武家事記」の武家式のなかに、こういう一節がある。
「およそ、喧嘩は一人の憤りを報ぜんことを欲し、家を失い忠をつとむることを忘る」
不肖な弟子であったことを知るべきであろう。


とのことです。念のため補足しておくと、長矩というのは浅野内匠頭の本名。山鹿素行はこの当時存命していた有名な軍学者で、その流儀は幕末まで絶えることなく伝承されたという人物です。

挙げていけばきりがありませんが、吉良屋敷の絵図面入手についても、同士の一人が大工の棟梁の娘を口説いて云々というのではなく、

屋敷の絵図は、ずっと前堀部安兵衛が手にいれた。しかし、これは、前住者の松平登之助時代のものであるから、いくらか参考になるという程度のものにすぎない。それを、吉良邸の裏門近くに商店を出している前原伊助と神崎与五郎とが惨憺たる苦心を以て、火事だといえば屋根にかけあがり、風雨だといえば物ほしにあがって吉良邸を見渡しては、少しずつ補正して行って、大たい髣髴がうかがわれる程度のものにしあげた。

とのことです。
まぁ、話を盛り上げるための創作部分を抜き去ってしまうと、忠臣蔵の魅力も半減しますので、ネタばらしも程々にしておきましょうか。ドラマについても「忠臣蔵」と銘打っている時点で「フィクションである」と宣言しているわけですからね。

ともかく、忠臣蔵を一層楽しむための予備知識としても、史実としての赤穂義士の挙については知っておくべき事が多々ありますので、海音寺著五郎さんの『赤穂義士』が何とか復活して、多くの人に読まれるようになることを願うのみです。

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