ああ忠臣楠公の墓

さて、私の勝手な理解かもしませんが、海音寺潮五郎さんは薩摩のボッケモン(使い方を間違っているかもしれない、、、)であり、非常に固い信念の人であります。そのためというか何事につけても、軽薄な一般世論のような、あるときは右に、またあるときは左にといった変節が大嫌いであるというのが私の理解です。

その性格に裏打ちされているため、海音寺さんの作品中に表れる人物評は、偉い学者先生の発言やら、世の中の流行やらに左右されたりはしません。前に『赤穂義士』を引き合いに出して紹介しましたが、四十七士に対する評価も、全くブレない確固たる信念のもと正当に下されています。

今日紹介するのは、そんな浅薄な世間の毀誉偏謗にさらされた人物の一人、楠木正成です。
歴史に興味があってこのページを読んでいる人はほとんどの方がご存じだと思いますが、楠木正成は南北朝の混乱期において、後醍醐天皇へ助力することに専心し、結果、逆臣(とある方面から評価される)である足利尊氏と戦って死ぬに至る人物です。

私が子供の頃も、楠木正成はわりと有名な部類に入る歴史上の人物でしたが、戦前(くどいようですが、太平洋戦争/大東亜戦争とよばれる戦争の前)には、忠臣中の大忠臣として、最大の賛辞をもってもてはやされた人物だそうです。

それが戦後には一転して不当にしか評価されなくなったそうなのですが、このあたりの人物評の変遷原因を『覇者の條件』の中で海音寺さんは次のように説明しています。少し長いですが引用しますと、

日本歴史の中の人物で、足利尊氏ほど評判の悪い人物はいませんでした。(中略)昭和の初期だったと記憶していますが、中島久万吉という大臣が、足利尊氏は大政治家であるという書物を書きましたところ、議会で問題になり、中島大臣は辞職しなければならなくなりました。
日本は幕末の動乱期に、皇室にたいする忠誠観念-勤王思想をもって人心を統一し、それによって混乱を整理し、新しい世界情勢に適応する国としましたので、以後ずっとこれを至上道徳として、人物評価の第一の標準として、この敗戦まで来ました。(中略)
ところが、この敗戦を境にして、尊氏の評価は大暴騰しました。時代の真の趨勢を的確に見ぬいた達眼の人、最も手腕ある大政治家、人情に厚い大人格者と、大へんな値上がりです。年若い歴史学者もほめ、年輩の歴史学者もほめ、従って一般はこれに雷同して、うっかり悪口を言うと、「あいつは反動じゃなかろうか」といわれそうな形勢です。敗戦によって、これまでの特殊すぎる国民道徳が反省され、見直されたためとはいえ、人の世の変わりやすさに驚かずにはいられません。


とあります。我々日本人が自身のことを自虐的に評するときにしばしば用いられますが、日本人の流行に流されやすいこと、かくの如しという感じですね。
ここで例示しているのは足利尊氏で歴史上、楠木正成と相対することになる人物です。尊氏のことは、別途触れる機会があるかもしれませんが、今日は正成です。
海音寺潮五郎さんは『武将列伝』の「楠木正成」でその史伝を執筆していますが、そこに表れる海音寺さんの楠木正成評は、

韓退之は「伯夷頌」において、伯夷・叔斉をたたえて、この兄弟は時勢に逆行した人々であるが、もし中国の史上、この両人がいなかったら、後世乱臣賊子が踵を接して出て来たに違いないと書いている。司馬遷は史記列伝のトップに「伯夷・叔斉伝」をおいているが、これもここに見るところがあったからに違いない。正成が時勢を知っていたことは、後醍醐と尊氏の間を協調させようとつとめたことをもってもわかる。しかもなお彼は時勢に逆行して、節義のために湊川で死んでいる。伯夷・叔斉以上の人物であると、ほくは思うのである。

と相当な賛辞をもって書かれています。
さらに、海音寺さんは『武将列伝』の中で、

正成ほど書きにくい人物はない。最も有名な人でありながら、信用の出来る資料がまことに乏しいのである。史実的にはあてにならない書物を知ってはいても、太平記に最も多くを依らざるを得ないのである

とは述べていますが、上記の正成評はほぼ最大級の高評価と受け取っていいのではないでしょうか。

このBlogで何度か紹介していますが、海音寺潮五郎さんが高評価する日本史上の人物は、西郷隆盛、上杉謙信、立花宗茂などですが、そこに共通するのは行動が清廉で、意志が固く、困難な状況にあってもその生き方を容易に変えないという人物像です。
楠木正成も、これらの人々と並び評されるだけの大人物だったと捉えて間違いないと思います。

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