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zoom RSS 加藤清正と徳川家康

<<   作成日時 : 2009/06/26 14:48   >>

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江戸時代を通して武士の道徳、いわゆる「武士道」が形成されていくにあたり、最も重要な役割を果たしたのは儒学です。これは徳川家康が林羅山を採用し、その家学であった「朱子学」を官学としたことに始まります。しかし、その以前から儒学を学んでいた武士は少なくなかったようで、例えば、加藤清正などは儒学を学ぶについての面白い逸話が伝わっています。

海音寺潮五郎さんによれば、当時の武士達が儒学に興味を持ったのは、それが「経世済民」の法、つまり国家経営の方法を教えるものだと思われていたからだそうです。
海音寺潮五郎さんが『加藤清正』で述べているには、

 
清正に限らず、この時代、主人の政治ぶり−−−たとえば信長とり立ての大名は信長の、秀吉とり立ての大名は秀吉の、家康とり立ての大名は家康の、政治ぶりを真似したり、評判のよい同僚の政治ぶりを真似したりして、自分の工夫を加えて、取り行っていたのだ。政治を学問として教えてくれる場がないのだから、そうするよりほかはなかったのだが、不安のあることはまぬかれない。何かよるべき道として学びたいという気が常にあった。
 儒学はそれを教えてくれる学問だというのだ。いつもまじめに国の政治を考えている清正としては、心を引かれないわけに行かなかった。


ということです。

さらに海音寺潮五郎さんは、加藤清正が儒学に深く傾倒するようになった背景には、豊臣家の行く末についての憂慮があったに違いないと解釈しています。
関ヶ原の戦いの結果、権力の座は徳川家康の手に帰し、豊臣家の弱体化は決定的となります。ある意味、無責任に散っていった石田三成とは異なり、生きている者として、豊臣家の行く末を真に憂いていたのは誰よりも加藤清正であったのです。

『武将列伝 戦国終末篇』収録の「加藤清正」によれば、関ヶ原の戦いの後、清正も多くの大名と同様に、徳川家康への忠誠心を表現するために江戸への参勤を行うようになります。
しかし、清正は江戸への途上、大坂を通過する際には豊臣秀頼の許への御機嫌うかがいを欠かしませんでした。

家康は清正の態度が気に入りません。本多正信に諫言させますが、清正は、

「拙者はご承知の通り、故太閤の一方ならぬ恩情によって成人いたした者でござる。御当家の世となって肥後一国の領主という大身になりましたことなれば、御当家の厚恩は忘れはいたさぬが、さればといって昔の恩を忘れるような軽薄は武士としていやでござる。(後略)」


と毅然として答えたということです。これは「駿河土産」という書物に出ていることだと『武将列伝』に書かれていますが、海音寺潮五郎さんは、

愚直なまでの清正の誠実さと、古武士ぶりと、豊臣家にたいする忠誠心とがよく語られている話である。


と述べています。

清正の立場にあれば、豊臣家への忠誠心は当然のことです。しかし、自身が大大名となった今では、家臣達やその家族の生活にも配慮しなければなりません。そうした清正の悩みについて、海音寺潮五郎さんは『武将列伝 戦国終末篇』の中で、

 
誠実な彼は、勢いおとろえて行く豊富家にたいする憂慮、自分の家との安泰を望む気持ちの間に、苦しみなやむことが一方でなかったに違いない。彼が江戸往来の船中で論語を読みながら朱点を加えているのを、清正が可愛がって飼っていた猿が見て、彼が厠に行った間に、主人の真似をして書上に縦横に朱をなすくったところ、清正はかえって来てニコリと笑い、
「おお、おお、そちも聖人の教えが知りたいのか」
と言って、頭を撫でたという話は有名だが、論語を読む気をおこしたのは、悩みにたいする解決をもとめたためだと解釈することが出来よう。激烈果断を儒教の教えはきらう。二律背反的な条件があれば、そのいずれにも偏しない中庸中正の道のあることを教えるのが儒教だ。彼はそれを知って論語を愛読するようになったとぼくは解釈している。


と述べています。
その後、豊臣家がどうなったかについてはみなさんよくご存じの通りですが、加藤清正はそれを目の当たりにすることなく死にました。同じく『武将列伝 戦国終末篇』には、

 
しかしながら、大坂の役の時まで彼が生きていたらどうであったろう。彼が健在であれば家康もあのように辛辣無残な言いがかりによって戦争をはじめるようなことは先ずなかったとも思われるし、事情が切迫する前に、何か適当な方法を豊臣家のために講じたであろうとも思うが、それでも家康が無理におし切ったとすれば、清正のなやみは、もう論語ではどうにもならなかったろう。先立つこと三年にして死んだのは、清正の幸福であった。


と書かれています。
こうして見てくると、思いが報われなかった加藤清正の姿は、司馬遷がいうところの
 「天道、是か非か」
に通じるものがあると思います。
そして私たちの人生に置き換えた場合、何を心情に生きていくかという問題にもつながります。やはり、即物的な欲望に従って生きるのがよいのでしょうか?それとも中庸中正の道を信じて生きて行くべきなのでしょうか?


◆特集:NHK大河ドラマ「天地人」

 海音寺潮五郎「直江兼続を語る」
 
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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
始めまして「猛将妄想録」の武将伝を読みながら立ち寄りました。初コメントで失礼します。

>以前から儒学を学んでいた武士は少なくなかったようで

 土佐の長曽我部元親もそうでしたね(笑)。

>愚直なまでの清正の誠実さと、古武士ぶりと、豊臣家にたいする忠誠心とがよく語られている話

 中国でも諸葛亮が尊敬した戦国時代の楽毅が主家と縁が切れても恩を忘れることなく攻めなかった。関羽は曹操に降伏しても劉備への忠義を忘れることなく曹操の恩を返してから立ち去ったそうです。儒学だけでなくこの話も耳学問で知っていたかもしれませんね。

>そのいずれにも偏しない中庸中正の道のあることを教えるのが儒教だ。

 清正は父と子が庇いあう正直のお話も読んでいたかも。もっとこちらの記事を読みたいので自分のブログ(http://ducunt-volentem.air-nifty.com/fateliang/)にリンクしてもいいでしょうか?
五遷・主簿
2009/06/27 13:12
五遷・主簿さん、こんにちは。コメントいただきありがとうございます。

ご指摘いただいた通り、楽毅や関羽の逸話に通じるものがありますね。その線で言えば、秀吉の死に際の状況は、劉備、諸葛亮、劉禅の関係とそっくりなんですよね。
「我が子に才能がなければ、お前が取って代われ」って家康に言うべきだったかもしれません。

リンクしていただけるとのこと、ありがとうございます。よろしくお願いします。
五遷・主簿さんのブログも拝見させていただきますね。
モモタ
2009/06/27 14:00
お久しぶりです。
しばらくご無沙汰している間に、内容の濃いお話がぞくぞくと、、、
ついつい引き込まれて時間を忘れてしまいます。
モモタさんのご文章は奥が深く、のめり込んでしまいます。
特に教育についてのお考えには賛同するところが多く、我が意を得たりの心境です。
これからもちょくちょくお邪魔させていただき、学ばせて頂きます。
よろしくお願いいたします。
花姥
2009/06/29 18:18
花姥さん、こんばんは。ご無沙汰しています。
いつもコメントありがとうございます。

日本の教育問題は本当に深刻だと思っています。教育の重要性はそれこそ孔子の時代も現代も同じですね。何とかしたいと思いつつ、非力な個人ではどうしようもなく、悩みの深まる毎日です。

これからもよろしくお願いします。
モモタ
2009/06/30 21:04

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