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早いもので今年も12月になります。年の瀬となると、いつもテレビで定番なのが「忠臣蔵」、赤穂浪士の討ち入りの話ですね。赤穂浪士は赤穂義士ともいいます。浪士ではなく、あえて「義士」と呼ぶのは、彼らの行動を壮挙として讃える気持ちが背後にあるからだと思いますが、海音寺潮五郎さんもそういった気分を持っていた一人で、『赤穂義士』という史伝を書いています。海音寺潮五郎さんの史伝と言えば『武将列伝』、『西郷隆盛』といったところが話題の中心になりますが、この『赤穂義士』も隠れた名作です。今日はその『赤穂義士』から「義士」と「不義士」の話、特に不義士の代表格・高田郡兵衛を取り上げで紹介してみます。 義士に対する不義士と言えば、だいたい何を意味するかはお分かりと思います。しかし、厳密な定義はありません。「赤穂四十七士」と言われる通り、最終的に仇討ちを成し遂げたと認められるのは47人ですが、これは当時の赤穂藩士のごく一部に過ぎません。 海音寺潮五郎さんの『赤穂義士』には、 いったい、幕府のさだめた軍役では、五万石の家中ならば、士分(将校)以上の者が七十騎あればいいことになっているのだが、浅野家では二百十余騎もあった。標準の三倍以上の兵力である。 とあります、将校級以下の人々もいるわけですから、詳しい人数は寡聞にして私は知りませんが、浅野家には非常に多くの藩士がいたことが分かります。 それら多数の藩士のなかで、47人のみが義士で、それ以外の人々は不義士だと呼ぶのは少し酷でしょう。最初から主君の仇討ちなど念頭になく、主家の滅亡、浪人という境遇を複雑な思いで受け入れた藩士も少なくないことと思います。 とは言っても、家老をはじめとする幹部クラスについては、代々高禄を貰って主家との関係も深いわけですから、浅野家を再興するなり、主君の仇討ちをするなりといった、何らかの決着を見るまで面倒を見る義務があるように感じます。しかし、実際には仇討ちを成し遂げた47人に含まれている幹部級の人物は、筆頭家老だった大石内蔵助ただ一人という寂しさです。 海音寺潮五郎さんの『赤穂義士』の巻末に収められた資料によると、大石内蔵助は赤穂藩士時代1500石という浅野家臣中最高の俸禄を貰っていました。四十七士中これに次ぐのは、小姓頭を務めていた片岡源五右衛門の350石ということですので、この間に属する幹部藩士達は誰一人として主君の汚名をそそぐことをしなかったわけです。 現役時代に高禄を貰っておきながら、一挙に加わらなかったこれら幹部たちは「不義士」と呼ばれることを甘んじて受け入れなければならないと思いますが、その中でも汚名を千載に残しているのが、城代務めていた大野九郎兵衛です。 大野九郎兵衛については、忠臣蔵を扱った諸作品で悪人として散々に書き尽くされていますので、みなさんもよくご存じと思いますが、海音寺潮五郎さんの『赤穂義士』にも、色々とみっともない逸話が紹介されています。以前、このブログでもいくつか紹介したようにも記憶しています。 海音寺潮五郎さんは、 九郎兵衛は伝えられるような悪人ではなく、単に惰弱だっただけかも知れない。しかし、惰弱であるということは、武士にとっては勿論、普通の人間にとっても、一種の罪悪である。 と手厳しく大野九郎兵衛を論評しています。また、 九郎兵衛の評判が古来あまり悪いので、気の毒になって、そうまで悪い人間がいるものではない、内蔵助を偉くするために不当に悪人にしているのではないかと思って、相当くわしく調べてみたが、どう調べても、弁護のしようがない。 とも海音寺潮五郎さんは述べています。 赤穂義士・忠臣蔵の物語は現代日本でも人気があり、いろいろな場面で繰り返し取り上げられていますが、おそらく、日本文化が存在し続ける限り、忠臣蔵の話題と供に大野九郎兵衛の汚名も語り継がれていくことでしょう。これは非常に恐ろしいことです。歴史を知る者は普段においても、非常時においても身を慎まなければならないという格好の反面教師ですね。 さて、この大野九郎兵衛と供に、不義士の汚名を負い続けているのが高田郡兵衛です。高田郡兵衛は堀部安兵衛、奥田孫太夫と供に、敵討ちを目標に掲げる同志中の最激派に属していましたが、突然の変節で脱盟しました。結果的に、討ち入りに先立つこと1年前のことです。 高田郡兵衛の変節については、次のような事情かあったと書かれています。それは郡兵衛の父方の伯父に内田三郎右衛門という人物があり、子供のいなかった彼が郡兵衛を養子にと申し込んだことが発端になっています。郡兵衛は実兄を通してこの養子話を断りますが、伯父はその理由を執拗に問いただします。返答に窮した実兄は、吉良を討って主君の敵を討つという郡兵衛の素志を伯父に説明して断念をうながすのですが、それを聞いた伯父は「公儀の裁きに逆らうとは何事か!」と激怒。幕府に訴え出ると息巻き、郡兵衛を窮地に陥れたのでした。そして、この伯父の対処に窮した郡兵衛は同志に迷惑を掛けることを恐れて、ついに脱盟したというのです。 この事情について海音寺潮五郎さんは非常な同情を寄せており、「脱盟やむ」と得ずと述べていますが、その後の高田郡兵衛の行動については手厳しい非難を浴びせています。それは、 いけないのは、彼のそれからの行動だ。武士の道から言えば、彼は、同志がめでたく本懐を達したことを見届けたら、腹を切らねばならなかったのである。彼自身も、堀部等と袂をわかつ時、 「各々方が本望を遂げられた後、生きながらえる心は毛頭ござらぬ」 といっているのである。だのに、彼は恬として余生をむさぼったばかりか、討入の翌朝、義士等が泉岳寺へひきあげるのに途中出逢って、恥ずる色なく、 「拙者もあれ以来、三田八幡に日参つかまつり、御一統の御本望をとげさせられるよう祈願して、今のその帰りみちでござる。御念願とどいて、祝着至極に存ずる」 と、祝辞を述べ、さらに酒一樽を泉岳寺に祝儀とて贈って、突きかえされて赤恥をかいているのである。(中略) しかし武士の道を重んずるならば、そういうことしてはならないのである。寸刻の猶予もなく、彼は腹を切って、おのれの武士を立てなければならないところであった。そうしたら、彼もあるいは、義士外の義士として芳名を後世にのこすことができたであろうにと、彼のためにおしまざるを得ない。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という「葉隠」のことばは、こういう場合のことなのだ。 という批評なのです。 厳しいですね。結果的に、高田郡兵衛は自らの武士道を立てることが出来ず、これまた日本文化が継続するかぎり、後世に延々と不義士の汚名を背負うことになったわけです。 恐ろしいですね。実に恐ろしいことです。高田郡兵衛は日本の歴史を左右する程の偉人でもなく、かといって大悪人でもなく、「武士」という特別な階級に所属していたとはいえ、その当時の日本人としてごくありふれた人物に過ぎなかったに違いありません。そんな普通人が「不義士」として、後世にまで延々と非難され続けるとすれば、やはり平時においても非常時においても、常に思慮深い行動をとらねばならないと言えると思います。
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