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help リーダーに追加 RSS 日本の道徳崩壊と福沢諭吉(完結編)

<<   作成日時 : 2008/10/27 22:09   >>

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これまで長々と、日本が道徳崩壊に至った理由とその過程について、私なりの見解を書きつづってきました。日本が経てきた長い歴史の間には様々なことがありましたが、今私たちが住む日本の状況を生み出すに至る大きな変曲点は昭和20年の敗戦だったようで、海音寺潮五郎さんが『史談 切り捨て御免』の中で次のようなことを述べています。

これは上記作品に収録された「世相直言」の中に「英雄待望」という小見出しを付けて書かれているものですが、そこで海音寺潮五郎さんは、

 今日の日本には憂うべきことがずいぶんあるが、最も大きなものが二つある。
 一つは、国民に公のために憤る気概がなくなったことである。(中略)悪を見ては憤り、不正を見ては排除する努力があるべきであるが、それがはなはだ稀薄になっている。
 思うに、これは苦難に満ちた長い長い戦時生活の反動であろう。日中事変、太平洋戦争を通じて、日本人は滅私奉公を最も暴力的に強制されつづけて来た上に、その滅私奉公も慷慨悲憤も、何にもならないことになった。何にもならないどころか、悪徳であったと烙印をおされた。公のために死んだり、負傷したり、家族を死なせたりした者は、最も世間から冷遇された。卑怯なことをしたり、狡猾なことをしたりしても、生きのびた者が大いに利益を得た。これでは反動がおこらないのが不思議である。
「国家のためだの、社会のためだの、そんな努力は阿呆の骨頂だ。損するだけだ。お手本が山とある」と、日本人全体がなった。
(中略)
 家庭のしつけも、学校の道徳教育も、放棄された。おとならが自信を失い、自分の利益しか考えないことになったのだから、これは当然のことである。


と、その当時の日本社会の状況を分析しています。

それはそうでしょう。前にも述べた通り、明治維新後の日本では天皇教=国家神道によって権威づけられた行動規範・道徳を身につけることが、日本人にとってのあるべき姿でした。それが敗戦によって、天皇の権威が権威ではあり得なくなり、それによって支えられていた道徳は道徳ではあり得なくなったために、海音寺潮五郎さんが書いているような社会変化が起きたのだと考えられます。

道徳というのは何らかの権威によって裏付けされ、支えられていなければ成立しないというのが私の考えです。その権威の地位に最も手っ取り早く付けるのは宗教だと思います。
信者にとっては、
 「神さまが、仏様がこのように仰っているから、これはしてはいけない、これはいい」
という理由ほど強力な裏付けはないからです。しかし、日本では宗教が再び権威の地位につくことはなさそうだと考えています。これも前に述べました。
では、現代日本人は道徳を裏付ける権威をどこに求めればいいのでしょうか?そのヒントになる話が『鉄舟随感録』(国書刊行会)にあるのを私は見つけました。

この作品は、山岡鉄舟が生前に書き記した覚え書きや自己鍛錬のための宣誓書といった文書について、それを関係者から見せられた勝海舟が論評を加えるという形式で書かれたものです。そこで勝海舟は次のようなことを言っています。

おれが山岡を感心な奴だと言えば、ある世間のものが、なにあれは勝の友だから、いい加減に褒めちらすのだと言うかもしれんが、山岡鉄舟という称号は、武士道の代名詞だ。真に日本人の標本だ。おれがこう言うと、天狗が外から出て来たって、いやおれの方が、山岡より勲位爵録が上だ、おれは何位何爵などという人形使いが出てくるかも知れぬが、そんな奴は、真に一場の人形使いだ。それ故に、そ奴の体が腐ると共に、その名もまた地を払ってしまうものよ。大人はこれが反対に、その人死するもその体は腐るも、その芳名は、その精神は依然としてなお生きるがごとく、歳月の経るに従って、いよいよその遺勲は芳しく、百千載の下に知己は益々多くなるのじゃ。
 菅公や和気公や、楠公などは、どうだい、生存の時分は天下こぞって敵ばかりだ。ところが幾百千載の下に至りし今日はいかがだ。おそらく小中学の子どもでも、その芳名を知らぬものはあるまい。やはり今日でも、精神的感化を受けておるではないか。だからその精神は今なお生きているといっても差し支えはあるまいよ。山岡などがすなわちその一人だよ。


どうでしょう?これではないでしょうか?
つまり、神や仏といった神秘的なものは信じにくくなっている現代人でも、尊敬する歴史上の人物はいるはずです。もし歴史的な知識が乏しく、そういった人物に心当たりがなくても、彼らの事績を知る機会さえあれば、彼らの行為に感動することはあるはずです。そういった感動によって呼び起こされる歴史上の人物に対する憧れや尊敬心、これが宗教に変わる「権威」となり得るのではないでしょうか。

勝海舟が挙げている、
 菅原道真、和気清麻呂、楠木正成
といった面々は明らかに尊皇思想に基づいて人選されています。幕末から明治の時代を生きた海舟がこうした人物たちを例として持ち出すのはごく当たり前の感覚だと思いますが、別の観点から日本史を振り返れば、別の人選があっていいはずです。海舟自ら、
 「真に日本人の標本だ」
と評する山岡鉄舟もそうでしょうし、その鉄舟と共に語るべき西郷隆盛などは真っ先に取り上げられるべき人物だと思います。

例えば『南洲翁遺訓』という書物があります。ご存じの通り、これは西郷隆盛に私淑した旧庄内藩士たちによってまとめられた西郷隆盛の言行録です。そこには次のようなことが書かれています。(引用は「西郷隆盛 南洲翁遺訓」(角川ソフィア文庫)より )

 
どのようなことでも、道理にかなった正道を歩み、真の心を貫き、人をだますような手は使ってはならない。多くの人は、行き詰まったとき、どんな汚い手を使ってでもその場を切り抜けよう、そうすればあとは時の運で、色々工夫はできるものと思うけれども、その使った手のせいで、必ずと言っていいほど困りごとができ、結局は失敗するものである。

 節操を守り義理を重んじ、恥を知る心を持つこと、このような姿勢をもたないなら、国は維持できない。このことは、日本や東洋ばかりでなく西洋のどの国でも同じである。政府の役人たるものが、国民に対して利益を争ったり義理を忘れるようなことがあれば、国民もみなこれにならい、人の心は利益追求ばかりに向かい、日に日に卑しく、利益を貪るようになるものだ。このように、節操も義理も、恥を知る心もなくなると、父子兄弟の間ですら金銭の争いをして互いに敵視するようになるのだ。このような状態で、国が維持できるはずがないではないか。

 学問を志すものは、広く学ぶという心がけが必要である。だからといって、広く広くとばかりにこだわっていると、あるいは身を修めるのがおろそかになりかねない。だから、常に自分に克ち、身を修めるよう心がけなければならない。広く学びつつ自分に克ち、真の男子たるものは、人を許しても、人に許してもらおうなどと甘えた心を持ってはならない、自分に甘えないということが重要なのだ。


これらはごく一例ですが、『南洲翁遺訓』には人々の行動規範になりうる内容が豊富に含まれています。この行動規範はそのまま道徳につながるものですが、単に紙に書かれたに過ぎない文章を道徳の源泉として力あらしめているのは、それを語った西郷隆盛という高潔な人格者の存在と、その大西郷の事績や言葉が人々の心に感動と尊敬心を呼び起こす作用にあると思います。

これは西郷隆盛に限ったことではありません。武士には「家訓」というものが多く伝わっており、
 有名なところでは武田信玄が記したと言われる『信玄家法』があり、
 北条早雲が記した『早雲寺殿廿一箇条』があり、
 変わったところでは、島津忠良(日新斎)のつくった『いろは歌』などというものもあります。
これらの家訓は信玄や早雲の在世中から、家臣団を教え導いていく絶対的な権威であったと想像されます。
どこの誰ともわからない人間が同じことを書いても駄目であって、「偉大なる主人である」武田信玄、北条早雲、島津日新斎らが書き記した言葉だからこそ、これらの家訓に記された行動規範は人々を導く力を持ち、それぞれの組織内での道徳心を育てる役割を果たしていたと思うのです。
宗教の神秘を信じなくなった現代人でも、歴史上の偉人たちの業績に感動する心、かれらを尊敬する心までは失ってはいないはずです。その尊敬心に根ざした道徳を現代に新たに、というより、もう一度蘇らせることができれば、日本の悲惨な状況を変えられるはずです。

しかし、ひとつ大きな課題があります。これまでに何度も引き合いに出している梅原猛氏は、
「道徳は子どものときから教えなければいけない。高校や大学では遅すぎる。小学生か中学生のときに道徳を教えなければならない」
と述べています。
道徳というのは人格の根幹をなす部分ですから、できるだけ早くから教える必要があります。しかし、小学生に『南洲翁遺訓』を読んで道徳を学べといっても無理ですし、中学生でも難しいでしょう。

しかも最近では、子どもをビジネスの対象とする動きには非常に激しいものがあり、いわゆる「キャラクタービジネス」によって、子ども達は必ずしも好ましくない価値観が背後に潜む情報の奔流に日々さらされています。
そういった情報によって子ども達の心が毒されてしまわない前に、人間としての、まずは日本人としての好ましい道徳を教える必要があると思うのです。

いきなり『南洲翁遺訓』などを教材にするのは困難ですから、子ども達が読むのにふさわしい児童文学に期待が掛けられます。それも単なる作り話ではない、史実を扱った作品にこそ価値があると思います。作り話であればどんなに理想的なストーリーも自由自在ですが、そういったある種の「ウソ」では子ども達を真に魅了するには限界があると思うからです。
作り話ではなく、これまでの日本の歴史を支えてきた実在の人物達の、実際の逸話に基づいた文学作品に接することによって、子ども達は感動し、自分なりに尊敬する人物を見つけ、その人物に憧れを抱き、自分もそのような人物になろうと志すことによって、優れた人格へと成長するための行動規範、つまり道徳を自然に見つけだすと思うのです。

もちろんそこは神でも仏でもない生身の人間のことですから、いかに西郷隆盛や山岡鉄舟であろうとも、善い面もあれば悪い面もあります。そこで善い面を採り、悪い面は捨てる必要があります。
日本での児童向けの歴史関係の書物と言えば、通史を扱うもの(これは往々にしてマンガの形式となっている)と、人物の伝記を扱うものに大別されるようです。
通史は個々の人物を深く掘り下げることができないため、子ども達の心を感動させるための素材としては必然的に人物伝に期待することになります。ところが、ある人物の人生を全て描くことに主眼を置く作品では、前述した「善い面と悪い面」が渾然一体となってしまいます。

人の善い面を真似るのは難しいものであり、逆に悪い面は比較的簡単に真似ることができます。そのため、何の考えもなくある人物の一生を略述した作品では、子ども達にその人物の悪い面を教える素材となってしまう可能性があると思います。
例えば、比叡山焼き討ちに見られる織田信長の残虐さ、朝鮮出兵に見られる豊臣秀吉の傲慢さ、秀吉没後の豊臣家を滅亡に導いた徳川家康の不誠実さなど、子ども達に真似て欲しくない歴史上の偉人たちの事績は少なくありません。
こういった好ましくない情報を与えることになってしまう人物伝よりも、歴史上の人物が人生の中で最も輝きを放った一時期、一瞬をテーマにした短篇作品の方が、子ども達に与える素材として好ましいのではないでしょうか。
そして、出来るだけ早い時期から子ども達に接してもらいたいという目的に即して考えると、こうした作品は、まず絵本の形式で提供されるべきだと思うのです。

残念ながら、現在の日本ではこのような作品はほとんど見つけることが出来ません。史実に基づいた作品を作るには、それなりの歴史知識が必要ですし、自分なりの解釈も必要になります。自分の頭の中だけで好き勝手に作れるフィクションとは、作成の困難度に格段の差があります。
しかし、もし上述したような子供向けの作品が日本の悲惨な道徳状況の改善に少しでも役立つのであれば、誰かが取り組む必要があります。私も長期的に人生計画を立てる中で、そうした活動にいつかは挑戦しなければならないと思う今日この頃です。
史談 切り捨て御免 (文春文庫)

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