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zoom RSS 海音寺潮五郎『二本の銀杏』(その2)

<<   作成日時 : 2008/05/31 14:01   >>

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司馬遼太郎さんをして、「名作」と言わしめた『二本の銀杏』、海音寺潮五郎さんの代表作の一つです。代表作中の代表作と言ってもよいでしょう。何をもって「名作」と評するかは人それぞれだと思いますが、古典に名作と呼ばれる作品が多くあることを考えると、時間を経ても色あせず、多くの人に繰り返し読んでもらうに足る作品がすなわち「名作」である、と表現できるのではないでしょうか。海音寺潮五郎さんの『二本の銀杏』も、そのような作品です。

そんな『二本の銀杏』ですが、この作品が持つ魅力を説明するのは簡単ではありません。その「簡単でない」理由と共に、『二本の銀杏』が備えた作品としての奥深さを、今日はある例え話を使って述べたいと思います。

ご存じの方も多いかと思いますが、海音寺潮五郎さんが愛読した小説にトルストイの「戦争と平和」があります。そして、こちらは知る人ぞ知る事実ですが、海音寺潮五郎さんと井伏鱒二氏が交友を深めるきっかけとなったのが、二人ともトルストイの「戦争と平和」を愛読しているという共通点にあったという、そんな作品です。

これは海音寺潮五郎さんの『日、西山に傾く』収録の「大海のような「戦争と平和」」に記載されているのですが、海音寺潮五郎さんはトルストイの「戦争と平和」こよなく愛読し、20代の頃に初めてこの作品と出会ってから、機会があるたびに何度もこの作品を読み返していたそうです。
海音寺潮五郎さんがどれほど「戦争と平和」を愛読していたかについては、

 それ以後、今日に至るまでおりにふれては読む。長い病気をした時、自らの文学に堕落が感ぜられる時、作家として行きづまりが感ぜられる時、いつも「戦争と平和」を読む。今日までに十二三回以上読んでいるに違いない。韋編三たび断つというが、いくどか綴糸が切れてバラバラになった。製本しなおしながら読んでいる。

と海音寺潮五郎さん自身で述べている通りです。

「戦争と平和」がこれほどまで繰り返して読まれるのに耐え得るのは、この作品が持つ奥深い魅力によるのですが、それを海音寺潮五郎さんは次のように説明しています。

こんな工合に、くりかえしぼくは「戦争と平和」を読んでいるので、デテイルに至るまでよく覚えているが、読む度に新しい面白さを発見する。偉大な文学は大海のようなもので、こちらの生長にしたがって酌みとれるものも大きくなるのであろう。二十台の時は蜆貝ほどしか酌みとれなかったものが、三十台には蛤貝ほどに酌みとれ、四十台には柄杓ほどにくみとれ、五十台には二合枡ほどになり、つまりはトルストイがあれを書いた時ほどにこちらが生長するまでそれがつづくのであろう。

「戦争と平和」はそれほどの名作がということですが、私にとっては『二本の銀杏』がまさに、これです。海音寺潮五郎さんの『二本の銀杏』はこちらの生長に伴って酌みとれるものが次第に多く深くなっていく、そんな奥行きを持った作品なのです。

実際に私自身も、海音寺潮五郎さんの全作品読破に取り組んでいる中、『二本の銀杏』を読み始めながら、その面白さがよく分からずに、読み続けることができなかったことがあります。
それから数年間、この作品を本棚で寝かせた後に読み直してみたところ、『二本の銀杏』の何と面白いこと!たちまちに魅了され、続く『火の山』『風に鳴る樹』も含めて、一気に進めてしまいました。

人間理解を中心に歴史を解釈する海音寺潮五郎さんは、小説執筆の場に置いては、登場人物の心情の細やかな描写を得意としています。この『二本の銀杏』はその特徴が最もよく現れている作品だと思います。よくぞ男女の別なく、ここまで描けるものだと感心しきりですね。
私など、まだまだ人生経験が不足で、女性の心理など半分も理解できませんが、『二本の銀杏』を読んでいると、何となく女性の気持ちが分かった気分になる、そんな作品です。
二本の銀杏〈上〉 (文春文庫)

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
僕はあの小説の一番凄いところは、例の某氏(読んでない人のために名を伏す)の自刃シーンだと思います。
執拗に詳しく描写したあとに、ようやくこときれた某氏の亡骸を家族が泣きながら井戸水で洗っていた、という部分で本当に身震いがしました。
人が一人死ぬ、というのは、流して読めば登場人物が一人減る、というだけのことですが、実際にはこういうリアルなことなわけで、その重さが、彼女の精神にどうのしかかるか、ということを考えれば、あの凄絶なシーンは絶対にあの小説から外すことができないわけです。
あそこからの急展開が、この小説の名作たる所以。
名作とか、そんなありきたりな言葉で表現したくないな。
なんかないんでしょうかね。この傑作を表現する言葉って。
カマウチヒデキ
2008/06/01 11:20
こんばんは。カマウチさん、いつもコメントありがとうございます。

私もあのシーンはとても印象に残っています。切腹と言えば、潔く美しいのもという印象が一般的だと思いますが、それは事後のみから事実を捉えているからであって、生から死へまさに移ろうとするその過程は当の本人でなければ分からない、様々な感情の奔流のようなものがあるんだろうと思っています。

私はあのシーンから少なからず滑稽感を受けましたが、ああいうこともあるんだろうと、非常に説得力をもって受け止めました。これも海音寺潮五郎さんの筆力のなせる技なのでしょうね。
モモタ
2008/06/02 21:32

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