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無念の絶筆となった海音寺潮五郎さんの大長編史伝『西郷隆盛』ですが、この作品が西郷隆盛の全生涯を描ききれなかった理由は、前回紹介した「余命の読み違え」だけではありません。また別の理由として、「海音寺騒動」と呼ばれる事象があげられます。 この「海音寺騒動」とは、海音寺潮五郎さんが執筆した原稿を受け取った後、出版社編集部で捲き起こる騒ぎのことです。ネット上で、この事実を紹介している事例が見あたらないようなので、ここで少し詳しめに紹介してみましょう。 これは、講談社で取締役編集局長を務めた萱原宏一氏が海音寺潮五郎記念館誌(第7号)に寄稿している文章中に書かれていることです。 海音寺さんは、自分は無器用だという。だから四十枚という依頼を受けても、四十枚の枠の中にきちんと納まるような器用な真似は出来ないという。実際、海音寺さんの場合、四十枚の筈が、八十枚になったり、百枚になることは、珍しいことではない。四十枚の予定で他を校了にして、四十枚分空けて待っていると、どかんと八十枚来ると、編集部はてんやわんやの騒ぎになる。これを海音寺騒動と私は言っていた。 書きたいことを書きたいだけ書く、これが海音寺さんの態度であろう。これは器用無器用の問題ではなく、作品に対して妥協しないということなのである。私はいい作品が欲しいと思ったら、この態度は是認せねばならぬと思っていた。 これで「海音寺騒動」がいかなるものか、おおよそお分かりいただけると思います。私は出版社の仕事内容について詳細には知りませんが、DTPが普及する以前の編集・印刷作業において、この「海音寺騒動」がいかに大変なことであったかは、想像に難くありません。 次は、新潮社で校閲部長、小説新潮編集長などを務めた川野黎子氏が同じく海音寺潮五郎記念館誌(第10号)に書かれた文章からです。 (前略) それは先生にとっては、原稿枚数が無い、ということでした。今月は四十枚でお願いしますと申し上げますと、判りました、と仰言るのですが、何しろ原稿がおそい、他の原稿は全部出来上がって、あとは先生の頁分だけしか空いてない、で、恐る恐る出来上りは何枚くらいになるでしょうかとお伺いをたてても、さあ、出来てみないと僕にも判らんのですよ、と平然たるものなのです。十枚やそこら増える分には何とでもなるようにしてはあるのですが、「阿波の屋形」という作品の時は二十枚以上オーバーしてしまい、どうにもならず、一番最後のところに四頁分ノリで貼りつけて雑誌を造ったことがありました。こんな事は初めてだと編集長や印刷所にえらく文句を云われてしまいました。 (中略) しかしながら先生のは無意味に増えるのでなく必然性があっての枚数ですから、作品に対しては厳しく責任を持っておいででした。 昭和四十二年から四十三年にかけて「幕末動乱の男たち」という読切連載を一回五、六十枚で書いて頂き、毎月何とか納まっていたのですが、最終回の「三刺客伝」が、とうとう百二十八枚で仕上がってしまいました。これはもうヤリクリのしようがなく、切りのいいところまでにして、あとは次号に回させて頂きたいと八十枚だけ掲載したのですが、先生は次号にその続きの五十枚分は使わないで下さいと仰言って、全く新しく六十枚をお書き直しになりました。普通なら一度完成したもの、まして先生のことですから充分推敲なさった筈の完成品です。そのまま残りを次号回しでいいのですが、一旦中途で切れると微妙なところで構成やリズムが違ってくるのでしょうか、他の人ならまずやらないことで、作品に対する作家の姿勢というものを見た思いで、非常に感銘致しました。 ご覧の通り、海音寺潮五郎さんに直に接して、その執筆姿勢、作品に取り組む真摯な情熱を、身を以て体験した方の逸話ですので、強い説得力を持っていると思って長々と引用しました。 特に、後半に出てくる『幕末動乱の男たち』は史伝ですので、 史伝は研究の面があるので、どうしても書き直したくなる という海音寺潮五郎さんの言葉そのままの逸話になっているのですが、絶筆となった大長編史伝『西郷隆盛』でも、海音寺潮五郎さんの執筆態度は以前のまま変わっていなかったのだろうと思われます。 つまり、かつて執筆していた部分も含めて、史料を見直し、推敲を重ねて書き直すという作業を延々と繰り返して、作品に取り組んだのだと思うのです。 これは『西郷隆盛』第1巻の「あとがき」に書かれていますが、この大長編史伝を書き下ろしとして発行する時点で、 作品は上野彰義隊戦争のところまでは出来上がっている とあるのです。 にもかかわらず、この作品は最終的に上記「彰義隊戦争」のところまでで途絶してしまっています。要するに一見すると、第1巻発行時点から作品は全く先に書き進められていないのです。この事実は、この作品を理解する上での一つの謎です。 これが意味するところは、「海音寺騒動」と言われた作品執筆態度にあるのだろうと私は感じています。 「真の西郷隆盛伝を完成させたい」 という情熱のままに、推敲に推敲を重ね、手直しを加えていった結果、ついに彰義隊戦争の先まで手が回らなかったのでしょう。これが海音寺潮五郎さんの執筆姿勢の原点であることを考えると、『西郷隆盛』が未完となったことは残念なのですが、ある種やむを得ない理由もあったのだと言えると思います。
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
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おはようございます。 |
花姥 2008/03/30 11:54 |
いつもお世話になってます。花姥さんの仰る通りと思います。 |
モモタ 2008/03/30 16:56 |
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