海音寺潮五郎さんの大長編史伝『西郷隆盛』は、幕末維新史を知る上での格好の教科書です。私は海音寺潮五郎さんのみならず、幕末を扱った作品を数々読んできていますが、この作品ほどためになる書籍を他に知りません。 普通に歴史好きな人であっても、幕末の風雲が明治維新につながっていく過程を事細かに把握していることは稀だと思うのですが、例えば、何となく坂本龍馬や西郷隆盛が活躍したとか、だから薩長同盟が実現したとか、その結果幕府が倒されたとか、こういった程度の延長線上の知識なのだと思います。 先頃復活した海音寺潮五郎さんの『西郷隆盛』は、もともと昭和36年から38年にかけて朝日新聞に連載した内容がもとになっています。その新聞連載当時のこととして、面白い話が作品中に掲載されていました。 司馬遼太郎さんから海音寺潮五郎さんのもとへ、ある手紙が届いたというのです。 この前、作家の司馬遼太郎氏が山口県に取材旅行し、山口から萩あたりを探訪して歩いているとて、現地から手紙をくれた。 「当地の朝日新聞の読者の中に、海音寺さんはなぜ西郷隆盛の中に長州のことを書きなさらんのじゃろという人があるので、おかしかった。今に出て来ますよ、今、海音寺さんの書いている時期には、長州さんはまだ天下のことに乗り出していなさらんでしょうと、小生は答えておいた」 という文面であった。 長州の人々だけでなく、他にも疑問を持つ人もあろうと思うが、司馬氏の言う通りなのだ。この時代長州は藩としてはまだ天下のことに乗り出していないのである。 この逸話からざっと3つのことが分かります。一つは勝利者側に立った長州(山口県)の人々のお国自慢的な意識。しかし、明治維新実現の原動力となった長州の人ですら、幕末維新の全容を正確には把握していないということ。そして、海音寺潮五郎さんと司馬遼太郎さんの親交の深さです。 昭和37年前後ということは、司馬遼太郎さんは『竜馬がゆく』執筆に向けた取材旅行だったかとも思えるのですが、既に直木賞は受賞していますので、それなりの知名度はあったことでしょう。それでも、今「司馬遼太郎」という名前から想像する知名度にはほど遠いはずです。 その司馬さんに対して、上述した長州の人は、 「海音寺さんは薩摩の人ひとじゃから、薩摩の人ばかり書きよるんと違うやろか。そんなえこひいきせんで、長州の人もちゃんと書くように、司馬さんから言うてくれへんやろか。海音寺さんとは仲ええんやろ?」 といったニュアンスを含めて話しかけているのですから、要するに、海音寺潮五郎さんと司馬遼太郎さんの親交の深さは、かなり良く知られた事実だったのではないかという気がするのです。 今となっては知る人の方が少ないのですがね。
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