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zoom RSS 海音寺潮五郎『寺田屋騒動』(その3)

<<   作成日時 : 2007/11/04 08:28   >>

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今日もまた、海音寺潮五郎さんの『寺田屋騒動』を紹介します。海音寺潮五郎さんの史伝は読めば読むほど新たな発見があるため、いくらブログを書いても、作品全体の面白さは到底伝え切れません。しかも、こんな良い作品が絶版で簡単には手に入らない状態なのですから、もったいないですよね。

私もそうですが、おそらくほとんどの人が日本史を本格的に学び始めるのは、小学生になってからだと思います。そして、これは日本の教育方法の欠陥としてよく言われることですが、歴史を時代ごとに輪切りにして教材に仕立てるため、前後のつながりが把握しにくく、結果として、
 小学校から高校まで延々と日本史全体を学んだはずなのに、何だかよく理解できない
というところに落ち込んでしまいます。

私がよく引き合いに出すのは、戦国時代の天下統一運動と幕末の倒幕維新運動のつながりです。
豊臣秀吉が天下統一を果たしていくなかで、毛利と島津が大きな敵として立ちはだかったことは誰でも知っています。一方、幕末の倒幕運動の中心になったのが、長州藩と薩摩藩だったことも誰でも知っています。
しかし、江戸時代に入って、毛利が長州藩となり、島津が薩摩藩となったことを誰もが明確に理解しているか?となると、たぶんに怪しいところがあると思います。(もちろん、海音寺潮五郎さんなどの歴史作家の作品に興味がある人は理解していて当然ですが、多くの日本人はそうではなく、高校卒業以来、日本史に接することなどほとんどない人が大多数だと思って書いています。)これは歴史を輪切りで学んだことによる欠陥だと思うわけです。

幕末に行き着く前には「関ヶ原の戦い」という大イベントがあって、先に例えとして挙げた毛利と島津は、この戦いでの負け組になっているという事実も重要です。
関ヶ原の戦いで大きな人的被害を受けたこともそうですが、敗戦処理によって非常に苦しい立場に追いやられた両家が、江戸時代を通じて幕府・徳川家への恨みを年々募らせ、それが幕末になって爆発し、あの討幕運動になった。
こう説明されると歴史知識に乏しい私たちは、
 「なるほどそうか!歴史はそんなつながりだったのか!」
と純粋に感動するわけですが、これはあまりに短絡的だというのが海音寺潮五郎さんの意見です。

三田村鳶魚老は、長州には年頭の秘密の儀式があって、家老が藩主の前に出て、「今年こそ関東御征伐を」と言上すると、藩主は「いや、まだ時機が熟さぬ、機会を待とう」と答えることになっていたと言いました。私は信じません。江戸初期から幕末の文久元年(1861)まで、長州藩は至って幕府に従順忠誠です。長州藩に限らず、どこの藩も、たとえば関ヶ原役で徳川家の敵にまわった藩、薩摩でも、佐竹でも、京極でも、いずれも従順です。関ヶ原で敵にまわった外様藩は、ずっと徳川氏を敵と見てひそかに復讐の刃をといでいたなどというのは、薩・長によって徳川氏がたおされた後に出来た、小説的発想にすぎません。それほど幕府の威力はすさまじかったのです。

長州藩の秘密儀式については、司馬遼太郎さんもその作品中(確か『世に棲む日日』とかにあったような。。。)で面白く紹介していたりするので、ご存じの方も多いと思います。
三田村鳶魚氏というのは海音寺潮五郎さんの「江戸学の師匠」だそうで、その分野の専門家ですから、けっしていい加減な情報をもとにこの「長州藩の秘密儀式」について語ってわけでないと思いますが、海音寺潮五郎さんが歴史を俯瞰的に捉えて、総合的に判断すると上述のような見解になるということなのです。

もっとも、長州藩も幕末の最終段階に至ると、「関ヶ原」をはじめとする過去の怨恨が爆発して、活動の原動力になったと述べています。海音寺潮五郎さんのように豊富な歴史知識をもって、歴史的事実を正確に捉えられるというのは素敵なことだと思います。
寺田屋騒動 (文春文庫)

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